私たちは、この現象宇宙に生まれ落ちて、今、こうして生を受けています。
その私たちは、何者かによって生み出されたのです。
同様に、宇宙を創造するビッグバンも、何者かによって起こされたわけです。
しかし、それは、潜象であり、五感で捉えることはできません。
また、それを論理的に説明することもできません。
でも、その何者かは、宇宙の創造主(理念)として厳然と存在するのです。
これは、般若心経の言葉を借りると、「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の存在ということになります。
不生不滅(生ずるのでもなく、滅するのでもない)
不垢不浄(汚れているのでもなく、清らかでもない)
不増不減(増えるのでもなく、減るのでもない)
それは、端的にいうと、運動変化(時間)すら無い完全無欠の絶対的存在といえます。
この絶対的存在に、いかに迫るかは、人類の究極の命題です。
そのため、古来から多くの哲人たちによって探求されてきました。
参考までに、その呼び名を列挙しておきます。
釈迦(仏教)は、「法(ダールマ)」
ウパニシャッドでは、「梵(ブラーフマン)」
(ウパニシャッドは、古代インドの哲学書の総称)
マハトマ・ガンディーは、「真理(satya)」
相似象(カタカムナ)では、「カム」
親鸞聖人は、「阿弥陀仏(アミターユス)」(梵語)
神道では、「アメノミナカヌシ」
イエスやヨハネは、「ロゴス」(古代ギリシャ語)
(聖書では、「現象」の「レーマ」と混同されて訳されている)
中庸(儒教)では、「天」
出エジプト記では、「有りて在る者」(出エジプト記は旧約聖書の一つ)
ヘーゲルは、「イデー」(ドイツ語)
など...
これらは、厳然と実在している絶対的存在のことです。
残念ながら、それを意味する共通語が存在しません。
(この世界共通語ができれば真の世界平和が訪れます)
ここでは、和語である「カム」と表現することにします。
または、適宜、「実在」とか「真理」と表現することにします。
私たちの生命は、その「カム」から現象界(現象宇宙)に派生したものです。
つまり、生命のみでの存在ではなく、そこには、「カム」が重合しているのです。
それを(重合した部分を)、「カムイ」と言います。
「カムイ」の「イ」というのは微分を表す文字で、「カム」の一部分という意味です。
その「カムイ」が、「カミ」となり「神」と呼ばれるようになったのです。
これを、ウパニシャッドでは、「梵我一如」と表現しています。
(梵=ブラーフマン、我=アートマン)
ブラーフマンは、「カム」であり、「実在」です。
アートマンは、「カムイ」であり、「いのち」です。
この二つは、同質であり一如だということです。
つまり、私たちの主体(本質)は、アートマン(いのち)であって、それは、「カム(実在)」そのものなのです。
そして、私という存在は、「生命」と「いのち」が重合したものということができます。
もし、私たちの命が尽きたら...
現象としての生命(相対的な世界での個性)は無くなります。
でも、「いのち」は、「カム(実在)」に還元され、永遠に生き続けることになります。
つまり、阿弥陀仏(アミターユス)となるわけです。
アミターユス(阿弥陀仏)とは、「永遠(とこしえ)のいのち」という意味です。
ナモー(南無)とは、帰一(きいつ)という意味です。(または帰命<きみょう>)
つまり、命が尽きたら、「永遠のいのち(実在)」に帰りひとつになるわけです。
私たちは、この世界(現象界)を脳を介して(概念で)認識しています。
そのため、対象を相対的にしか捉えられません。
したがって、絶対的存在である「いのち」を把握することはできません。
また、「永遠のいのち」という概念も頭で理解することはできません。
これを、へたに突き詰めていくと、観念論の世界に落ち込むことになってしまいます。
私たち日本人は、森羅万象に神が宿っているという宗教観を持っています。
いわゆる「八百万の神(やおよろずのかみ)」です。
私たち、一人ひとりには、神が宿っているのです。
人だけではなく、動物や草木、昆虫や細菌、土や石ころなど万物に...です。
それは、私たちが認識する上では、絶対的存在(唯一神)ではありません。
皆、個性を持っている現象神(相対的産物)です。
それが、実在面(真理の側)から見ると、絶対的存在としての「カム」となるのです。
この本質を知るには、現象と実在の峻別(実在認識)が必須です。
仏教では、これらを峻別し、「いのち」を見抜くことを「正見(しょうけん)」と言います。
「正見」に対して、現象面しか認識できないことを「無明(むみょう)」と言います。
「無明」に陥ると、大きな過ちを犯すことにつながります。
それは、現象界の中に、絶対神(唯一神や創造神)を創造してしまうということです。
この世の中は、現象界であり相対的な世界です。
そこに、絶対神を持ち込むことは許されません。
これは、「実在(真理)」に対する反逆行為となってしまいます。
仏教(バラモン)においても、ブラーフマンが、ブラフマー神と人格化されるという過ちを犯しました。
それに対して、釈迦は、無神論(現象神は無いということ)をとなえました。
そして、「法」(ダルマ)という概念を用い宗教改革を行った(実在に復活させた)のでした。
絶対神が現象化(相対的に認識)されると、個性を持ってしまいます。
つまり、絶対神を、この現象界に引きずり下ろし、絶対化するという過ちを犯すことになるのです。
そうなると、その人(宗派・国)にとっては絶対でも、他の人(宗派・国)からはそうは見えません。
なので、「こっちが本物で、そっちは偽物だ」、「いや違う、そっちが偽物で、こっちが本物だ」ということになってしまいます。
それが、ゆずれない原則となって宗教戦争が勃発し、文明は滅びへと向かうのです。
私たちは、テクノロジーによって、高度な文明を築いてきたと思っていました。
でも、その基礎をなす哲学が、人間中心の傲慢なものでした。
豊かさや自由といっても、それは表面上のことで、搾取や環境破壊など、大きな犠牲の上に成立していたのです。
この近代西欧文明は、見かけ倒しの砂上の楼閣だったわけです。
この現象界は、多様性のもとに矛盾が生じ、その矛盾の止揚によって創造が起こる(発展する)ように仕組まれています。
その原則こそが「カム」の意思(弁証法的法則)であり、それに背くものは淘汰されるのです。
近代西欧文明は、対立を否定し打倒するという強引な手法によって築かれてきました。
これは、創造を指向する「カム」に対する反逆行為となってしまいます。
したがって、必然的に、崩壊に向かうことになるのです。
私たちは、今まで、教育やメディアによる洗脳を受けてきました。
間違った(非真理の)価値観や観念を刷り込まれ、頭脳を、がんじがらめに拘束され、思考力が奪われてきました。
そして、「ヒムサ思想」によって霊性が封印されてきたのです。
(「ヒムサ思想」とは、対立の抹消によって進歩発展が図れるとする考え方です)
文明の崩壊と共に、唯物的な世界観は、ひっくり返ることになります。
そして、私たちは、多くの気づきを与えられ、自らの頭で考えるようになるのです。
考えるとは、「カムカヘル(カムに帰る)」です。
考える(カムに帰る)ことで、自らの「いのち」に目が向き、「八百万の神」の自覚(霊性)を呼び覚ますことができるのです。