農園で脳力開発Ⅰ

虫捕りで天才が育つ?

 「ノーベル賞受賞者の多くが、子どもの頃、虫好きだった」という話は有名です。
 また、「虫捕りで天才が育つ」とも言われています。
 はたして、虫捕りには、どんな意味があるのでしょうか。
 ここで、掘り下げて考えてみることにします。
 それを考えるにあたって、まずは、次の言葉の理解を深めておきたいと思います。
 それは、「知識」と「能力」と「脳力」です。
 この3つを、明確にしておけば、理解は容易になります。

シロスジカミキリ

「知識」とは

 知識とは、簡単にいうと、人類の認識資産です。
 つまり、ご先祖様によって積み上げられてきた経験の結晶ということができます。
 私たちは、それを、短時間で学びとることができるのです。
 これは、人類のみに与えられた特権です。
 (犬や猫などの動物は、学習したことは一代限りです)
 人類の発展は、この特権によって成されてきたことは、まぎれもない事実です。

 でも、私たちは、そんな知識を活かしきれているとはいえません。
 なぜ、知識を活かせないのかです。
 勉強して知識を詰め込むと、博学になり、クイズにも強くなります。
 でも、その知識は、体験の伴わない、こまぎれの情報にしかすぎません。
 ハードディスクに保存されているデータのようなものです。
 知識も、知恵としての活用ができなければ、宝の持ち腐れということになります。

「能力」と「脳力」

 これは、コンピュータに例えると分かりやすいと思います。
 コンピュータでは、保存されているデータは、プログラムによって処理されます。
 こまぎれのデータを、検索したり連係したりして答えを導き出すのです。
 人の脳も同じです。
 知識を活用できるかどうかは、脳内のプログラムによって決まるわけです。

 そのプログラムは、2種類に分けられます。
 「基本ソフト(OS)」と「応用ソフト(アプリケーションソフト)」です。
 応用ソフトは、基本ソフトの上で稼働しています。
 そのため、応用ソフトは、基本ソフトに依存することになります。
 人でいうと、脳力が、基本ソフトの役割をします。
 そして、能力(スキル)が、その上で稼働する応用ソフトということになります。

 今の教育では、応用ソフトの機能アップのことしか眼中にありません。
 基本ソフトのほうは、おろそかになっています。
 そのため、基本ソフトは、極めて低機能です。
 そして、バグ(不具合)だらけということになります。

 私たちの脳には、高度な能力(応用ソフト)が搭載されています。
 そして、ハードディスクには、膨大な知識(データ)も保存されています。
 でも、それらは、十分に機能することができません。
 それは、脳力(基本ソフト)が不完全だからです。
 そのため、想定外の失敗(エラー)も頻発することになるわけです。
 つまり、成否のカギは、基本ソフトである脳力にあるということです。

 その基本ソフト(脳力)のプログラミングに大事なのが子供の時期です。
 「三つ子の魂百まで」ということになります。
 3歳までに、とは言いませんが...
 身体の成長に移行する思春期までは、大事な時期といえます。

脳力軽視の弊害

 では、脳力って何をしてるの?
 ひと言でいうと、「正しいか否か」を判定しているのです。
 では、何をもって「正しい」とするのかです。
 それは、「事実に沿っているか否か」ということになります。
 ですから、脳力が正しく機能する人は、何をやっても、思い通りに行くわけです。
 事実に沿った把握・判断ができるのですから...
 でも、それは、普遍的な(当たり前の目立たない)脳力です。
 そのため、誰も、脳力の観点からアプローチしようとはしません。

 それより、成果が一目瞭然の能力(スキル)を磨きたいのです。
 マスコミや周りの環境も不安をあおります。
 多くの人が求めているのは、即効性と特殊性です。
 みんな、効率的に特殊な能力を得て、特別な存在になりたいのです。
 そのため、世の中は、そういった情報ばかりが氾濫することになります。
 そして、早期教育や英才教育に走っていきます。
 子どもたちも、それに付いていくのに精一杯で、自分と向き合う時間もとれません。
 そして、自分の思いも希薄になり、心も空虚になっていきます。

 それでは、何がダメなのかです。
 能力というのは、決められた形式に沿って、学んでいけば身につきます。
 答えも、すでに決まっています。
 本人が、答えを求めて、探索していく必要がないわけです。

 したがって、抽象的思考力が育ちません。
 そのため、物事を主観的(一面的)にしか捉えられなくなってしまいます。
 好き嫌いで判断したり、大丈夫だろうの希望的観測で行動したり...

 そして、想像力・予測力・推理力などが乏しくなります。
 つまり、物事の展開を想像したり、相手の立場に立ったりができなくなるわけです。
 そして、刹那的に(目先の利益や快楽を基準に)しか考えられなくなります。
 そのため、いじめや家庭内暴力や、様々な犯罪にもつながる可能性もでてきます。
 また、何でも安直に答えを求めるようになります。(論理の飛躍)
 そして、他人の言動を鵜呑みにするようになります。
 (ロボット化・マニュアル人間化)
 このように、抽象的思考力が乏しいと、どうしても、観念(形式)に操られることになってしまいます。
 つまり、観念(形式)を疑って、事実に沿っているかの検証ができないわけです。

 分かりやすい例で言うと、消費期限です。
 消費期限というのは、あくまでも、ひとつの基準にすぎません。
 でも、多くの人が、消費期限を過ぎたものは食べられなくなります。
 つまり、本人の中では、観念(形式)が事実になっているのです。
 そして、食べられるものが捨てられることになり、期限内なら安心と、腐ったものを食べることにもなってしまいます。
 昔は、臭ったり、味わったりして、検証していました。
 でも、消費期限という概念を知ったことで、それができなくなったわけです。
 これが、知識(観念)偏重の怖さです。
 盲目的に、知識を詰め込んでいくと、頭の中が観念でがんじがらめになって固着してしまうわけです。

 こうした落とし穴は、他にも、たくさんあります。
 評価、印象、憶測、仮定、学歴、肩書、家柄...など。
 たとえば、評価というのは、評価する者の(ある立場・観点からの)価値判断基準にすぎません。
 全てに通じるような客観性は欠いているわけです。

 正しい判断をするには、物事を事実に沿って捉えていかなければなりません。
 そこを観念に操られると、事実から離れてしまいます。
 でも、本人は、そのことには気づけません。
 なので、何をやっても、こんなはずではなかった、となってしまうわけです。

虫捕りで脳力開発

 基本ソフトのプログラミング(脳力開発)において大事なのは、自発的にということです。
 好奇心など内なる力が原動力になるわけです。
 そして、楽しみながら地道に取り組んでいくより他ありません。
 知識のように受け継ぐことができないのですから...

 そのカギを握るのが体験です。
 そのひとつに虫捕りがあるわけです。
 では、虫捕りが、基本ソフトのプログラミングに、どのように関わっているのかです。

 人が、ものごとを認識するのは五感を通してです。
 見たり、聞いたり、味わったり...などしてです。
 でも、あらゆる事柄を自らで体験することはできません。
 そのため、他人の体験からも学ぶことになります。(いわば疑似体験です)
 教科書(マニュアル)などを通して、効率的に先達の知識(体験)を得られるわけです。
 虫捕りのためには、対象の虫を図鑑で調べたりします。
 (どんな所にいるの?何を食べているの?など)
 友達などから情報を収集したりもします。
 (どこで、いつ頃、どんな方法で捕まえた?など)
 虫捕りの危険性なども把握しておかなければなりません。
 どんな虫が毒を持っているのか、刺すのかなど。
 軽装で行って、マムシに咬まれたというようなことにもなりかねません。
 つまり、自分に都合の悪い情報も集めなければならないということです。
 情報を、広く深く集めることで、客観性を高めていくのです。

 でも、こうした認識は、主観によるものですからアヤフヤです。
 (本に載ってたとか、人から聞いたとかのレベルです)
 より確実なものにしていかなければなりません。
 そのため、そこから普遍的な法則を見出していくことになります。
 とはいえ、見出した法則も、絶対的なものとはいえません。
 状況は、日々刻々と変化しているのですから。
 そのため、その法則をもとに仮定として実践に移します。
 そして、再び、検証して認識を高めていきます。
 それの繰り返しです。
 つまり、認識→実践→再認識→再実践→再々認識→再々実践...というようにです。

 最初は、誰しも、捕まえられるだろうの希望的観測で行動するものです。
 (主観的に行動)
 でも、事は、そう簡単には運びません。
 希少な虫を見つけても、逃げられることもあるでしょう。
 捕まえたクワガタに挟まれたり、カミキリムシに咬まれたり...
 また、ハチやアブ、サシガメなどに刺されたり...
 このように、五感をフルに使って、身をもって、様々なことを体験していきます。
 そのうち、虫の習性を理解したり、行動を読んだりもできるようになってきます。
 このように、体験によって、客観的な目が養われていくのです。
 そして、問題を解決に導いたり、目標を達成したりする力が培われていくわけです。