「育てる」とは

はじめに

ここでは、「育てる」ということについて考えていきたいと思います。
「育て方」ということではありません。
「育て方」というと、マニュアルになってしまいます。
マニュアル優先では、どうしても、事実に沿った対応ができなくなります。
そして、分かったつもりになって、考えることをやめてしまいます。
とっつきやすくても、実践では役に立ちません。

ここでは、野菜を育てるというのが、本来のテーマです。
でも、そういう枠組みで考えると、一面的になって形式化してしまいます。
そこで、ここでは、枠を取り払って、従来に無い視点で、本質に迫っていきたいと思います。

「育てる」ということで見ると...
野菜を育てるのも、子供を育てるのも、自分を育てるのも一緒です。
さらに広げて、農業を育てるとか、事業を育てるとか、地域を育てるというのも一緒です。
その「育てる」というのは、どういうことなのか?
その本質をつかむことができれば、あらゆるものに応用できます。

「育てる」というのは、発展的な(成長の)方向に導くということです。
そのため、内在する「いのち」と、いかに向き合えるかがカギになります。
そして、内なる力を引き出すことが目標となります。
つまり、エデュケーションの語源の通りです。

大切なのは苗の時期

野菜の種を蒔いて、しばらくすると芽が出てきます。
育てる側としては、早く大きくなって欲しいと願うばかりです。

この苗の時期は、根を伸ばすのに一生懸命です。
水や栄養を求めて、縦横無尽に根を伸ばしていきます。
それに比べ、茎や葉っぱの生育はゆっくりです。

そのため、つい心配になります。
栄養が足りてないの?育て方が悪いの?と...
そして、水をやったり、肥料をやったりと、手を尽くすことになります。

それによって、生育は促進されます。
そして、緑が濃くなり、茎も伸びて、葉っぱも大きく育ちます。
これで、ひと安心です。

でも、ちょっと待ってください。
生育が早い、緑が濃い、茎が伸びる、葉っぱが大きくなる、というのは...
全て悪い兆候です。

つまり、軟弱徒長です。
肥料分(窒素分)が、体内でダブついたことにより、肥満体質に陥ったのです。
見かけは立派でも、細胞は、ひ弱に育っています。
そのため、菌や虫に侵されやすくなり、すぐにバテてしまいます。
糖度も落ちて、エグ味も強くなります。

この時期に、最も大事なのは、毛細根の発達した強い根が張れるかどうかです。
毛細根というのは、リン酸やミネラルを吸収するための根です。
したがって、この根が育たなければ、生涯、健康は得られません。

この毛細根の成長を阻害するのが、過剰な肥料分(窒素分)です。
ひどい場合は、根が肥料焼けして枯れてしまいます。
また、根が水没すると、根が呼吸困難になってしまいます。

全て、野菜のためを思ってのことなのですが...
結果的に、伸びようとする力を邪魔することになっています。
成長する力は、野菜(主体)の内部にしかありません。
それを、いかに、上手に導き、引き出すことができるかです。

内在する力を引き出す

成長の原動力は、外からの力にあると、つい思ってしまいがちです。
でも、成長の原動力は、主体の内部にしかありません。

たとえば、野菜は、水や肥料など、外から与える力で育つと思われています。
そのため、つい、それらに頼りがちです。
でも、それらは、あくまで条件(外因)にしか過ぎません。
外から与えるのは、必要な時に、必要な量だけです。
行き過ぎは、逆に、本来の力を弱めてしまいます。

野菜に、水を与え過ぎると、根(給水根)を伸ばしません。
そのため、干ばつに対応できなくなります。

これは、私たちに例えると、熱中症対策です。
今では、マスコミの宣伝によって、水分不足の恐怖感が植え付けられています。
子供たちもペットボトルを手放せません。

身体には、必要の有無にかかわらず、水分が送り込まれてきます。
(脳が、水分を摂るよう命令していないのにです)
これでは、水分に対する感受性が鈍ってしまいます。
(身体が、どれくらいの水分を欲しているのかさえ分からなくなります)
そして、体温や体液濃度を調節する機能も混乱してしまいます。
結果的に、猛暑に対応できない体になって倒れてしまうことになります。

ひと昔前は、運動時の水分補給が制限されていました。
(水分を摂り過ぎると体内のミネラルの濃度が低下して筋肉が動かなくなるからです)
子供は、炎天下で、顔が真っ赤になりながらも夢中で遊んでいました。
部活などの練習中に水を飲むことも許されませんでした。
今考えると、極めて過酷な状況ですが...
でも、誰一人として、熱中症で倒れたということを見聞きしたことはありません。
(熱中症という言葉もありませんでした)

水分や塩分は、人が生きていく上で必須のものです。
でも、少々不足しても、身体は対応できるようにできています。
(そうでないと、人類は、とっくの昔に絶滅しています)

なぜ、私たちや野菜が、今、ここに生を受けているのかというと...
長い進化の歴史を生き抜いてきたからに他なりません。
生物の内には、その過程で獲得してきた絶大な力が眠っています。
いかにして、それを引き出せるかです。

なぜ内からなのか?

福沢諭吉の言葉に、
「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」(岩波文庫『福沢諭吉教育論集』)
とあります。

教育という表現は、教え育てる(押し付け)であって、妥当ではないと言い切っています。
では、その本質は、どこにあるのか探っていきたいと思います。

子供が成長するのは、子供の内に「いのち」があるからです。
その「いのち」が内因です。
(福沢諭吉の言葉を借りれば、内在する力が天資です)
そして、教育やしつけなど、外からのはたらきかけが外因です。

たとえば、賞罰教育を例に考えてみると...
「叱る」とか「褒める」というのは外因です。
これは、ひとつ間違うと押し付けになってしまいます。

叱られた子供は、叱られないことを目的に行動するようになります。
叱る人の前ではおとなしくすればよい、
悪いことは隠れてすればよい、
何もしなければ叱られることも無い(無気力)、
というような考えを持つようになります。

褒められた子供は、褒められることを目的に行動するようになります。
褒められないことはする必要はない、
人が見ていないところでは頑張らなくてよい、
褒められないと頭にくる、
というような考えを持つようになります。

表面的に取りつくろうことのできる良い子に育つかも知れません。
親にしてみれば安心です。
でも、子供にとっては、自分の意欲を押さえつけることになります。
そのため、好奇心や探究心などを減退させることになってしまいます。
また、最悪、自我の無い操り人形となってしまいます。

そして、脳内には、自己保身のための(偽善)の脳回路が作られることになります。
(人として、正しいか否かという基準は意識から消えてしまいます)
そのため、他人の評価や言葉を基準にものごとを考えるようになってしまいます。
こうした脳回路が形成されてしまうと、修正することは容易ではありません。

人は、自らの生きる意味や意義を見出そうと探索しています。
その把握によって、はじめて、自分が為すべきこと為し得ることが見えてきます。
それをもとに、人生目標も確立されていきます。

それを、いかに導いていくかが教育の目的です。
そして、その邪魔をしないというのが絶対要件です。

「内因(主体)」と「外因(環境)」の関係

では、「内因」と「外因」との間には、どんな関係があるのかです。
簡単に整理してみると...

野菜の種を蒔くとします。
水分や温度などの条件を整えてあげます。
しばらくすると芽が出てきます。
これは、種の中に「いのち」があるからです。
この種の中にある「いのち」のはたらきが内因です。
そして、水分や温度などの条件が外因です。

これは、人(個人)であれ、家庭であれ、地域であれ、国であれ、全て考え方は同じです。
つまり、この世の中のあらゆる事象は、この関係に基づいて運動変化しています。
したがって、ものごとの本質を捉える上で、とても重要な観点ということができます。

外因によってできるのは、内因が受容できる適度な環境を整えてあげることだけです。
そして、外因の力が作用できるのは、内因のはたらきを介してだけです。
外因によって内因を創り出したり、内因の力を高めたりすることはできません。

外因による作用の効果は、一時的で局部的で、必ず、弊害(副作用)を伴います。
外因による作用の効果に比例して、弊害(副作用)も大きくなります。
外因により作用の効果を現す場合は、内因が持つ本来の機能は低下します。
外因による作用に対して、内部応力(ストレス)が発生し、その一部が残留します。

ただし、外因が主導権を発揮して、支配的に内因を変える場合があります。
それは、成長(発展)方向ではなく、衰退(消滅)方向に作用する場合です。
たとえば、生きた種を熱湯に入れるとします。
すると、種は死んでしまいます。
たとえ、手助けのつもりでも、内因が許容できる範囲を超えたら破壊につながります。
つまり、成長方向へ導くには、主体に内在する力を引き出すしか無いわけです。

これを、私たちの身体に当てはめてみると...

肩が凝ったとします。
揉みほぐして柔らかくすれば良いということで...
凝った部分を叩いたり揉んだりします。

実際に行ってみると、確かに軽くなった気にはなります。
これが、外力によって整えることができたという錯覚です。

しかし、事実に沿って見ると...
叩いたり揉んだりした刺激は、筋肉を制御している中枢に運ばれます。
そして、刺激を受けた筋肉に対して、身を硬くして護れという命令が出されます。
(外力に対して、内部応力が発生し、その一部が残留します)
したがって、次の日には、前にも増してひどくなります。

こうしたことを続けていると、筋肉は、どんどん硬くなっていきます。
すると、血液を送るために、さらに血圧が上がっていきます。
血圧を上げないと、脳や各臓器に血が通わなくなってしまうからです。
それでは、脳梗塞や痴呆などになってしまいます。

しかし、血圧が上がると、今度は、お薬によって下げられることになります。
でも、下がり過ぎると、血流がとどこおって、病気になってしまいます。
そのため、身体のほうでは、さらに血圧を上げることになります。
そして、危険な高血圧を招いてしまいます。

また、体内のはたらきを乱すお薬は、身体にとっては毒です。
そのため、身体のほうも、必死にお薬を解毒します。
そのため、お薬も徐々に効かなくなってきます。

そして、さらに血圧が上がると、血圧調整の安全弁がはたらきます。
鼻血を出すことで血圧が下げられます。
本来なら歓迎されるべきものなのですが...
「たいへんだ、早く止めないと...」ということになります。

このように、外力(外因)によって問題解決ができると錯覚してしまうと...
内因には、まったく目が向かなくなります。
そうすると、「凝っている」とか「血流が悪い」「血圧が高い」という結果だけが見えてきます。
そして、そういった症状を対象にした対応に終始することになります。
つまり、結果を原因と勘違いして、対症療法に走ってしまうことになります。

知識を知恵に変えるには

そもそも知識とは、何なのでしょう?

ひと言でいうと、人類の総合的な認識資産です。
ご先祖様によって積み上げられてきた経験の結晶です。
それを、私たちは、教育によって短時間で学びとることができます。

犬や猫などの動物は、学習しても一代限りです。
子孫に伝えていくことができません。
生まれ落ちたら、振り出しに戻って学習しなおさなければならないのです。

そう考えると、人類には、大変な特権が与えられていることになります。
そして、私たちは、大変な財産を受け継いでいることになります。
でも、残念なのは、それを活かしきれていないことです。
では、なぜ、知識を活かせないのかです。

勉強して知識を詰め込むと、もの知りや博学にはなります。
でも、その知識は、体験(実感)の伴わない、こま切れの情報にしかすぎません。
ハードディスクに保存されているデータのようなものです。
知識も、知恵として活用ができなければ、宝の持ち腐れです。

では、どうすれば、知恵としての活用が可能になるのかです。

人が、ものごとを認識するのは五感を通してです。
つまり、見たり、聞いたり、味わったり...などして認識します。
でも、あらゆる事柄を自分で体験することはできません。
そのため、他人やご先祖様の体験からも学ぶことになります。
いわば、疑似体験です。

でも、こうした認識は、主観によるものですからアヤフヤです。
より確実なものにしなければなりません。
そのため、そこから普遍的な法則を見出していくことになります。

でも、見出された法則も、絶対的なものとはいえません。
なぜならば、この世の中は、不断に運動変化しています。
また、TPO(時・場所・場合)にもよりますので、絶対はあり得ません。
たとえ、大規模に行われた統計調査の結果も、それは傾向でしかありません。
したがって、個別の問題に、そのまま当てはめることができません。

そのため、その法則をもとに仮定として実践にうつします。
そして、再び、検証して認識を高めていきます。
それを繰り返していくことになります。
つまり、認識→実践→再認識→再実践→再々認識→再々実践...
によって、認識を高めていくしか方法がないのです。

文章にすると難しく感じられるかも知れません。
でも、これは、私たちが、普段、何げなく行っていることです。

たとえば、英単語を丸暗記するだけでは、英会話ができるようにはなりません。
そういうことは、誰もが知っています。
そのため、英会話を練習することになります。
留学までして、経験を積む人もいます。
それによって、はじめて実践で使えるようになります。

無数のデータ(知識)も、ただ、保存されているだけでは機能しません。
それが、プログラムからリードされて、連携することで機能するようになります。
そのプログラムの回路を作るのが行動であり実践です。
または、脳内で実践する(頭の中で具体的に描く)思考実験(シミュレーション)です。

このように、知識というのは、使うことで、はじめて身につきます。
そして、その結果からさらに学び、知識もどんどん増加していくことになります。
それによって、難しいと思っていたこともいとも簡単にできるようになるのです。

では、そういう思考力が訓練がされていないと、どうなるかです。
実は、そこが、深刻な問題なのです。

「能力開発」より「脳力開発」

私たちは、自分の思い通りの人生を歩みたいと願っています。
そのために、日々、能力開発やスキルアップに励んでいます。
受験戦争を勝ち抜くのも、そのためでしょう。

では、能力の高い人が、思い通りの人生を歩んでいるかというと...
そうでもなさそうです。
それでは、うまくいく人と、いかない人は、どこが違うの?能力って何なの?
ということになります。

コンピュータに例えて考えてみると...
能力とかスキルというのは、応用ソフト(アプリケーションソフト)です。
応用ソフトは、基本ソフト(OS)の上で稼働しています。
そのため、応用ソフトは、基本ソフトに依存することになります。

今の教育は、能力重視です。
(学校教育だけでなく家庭教育や職業訓練など全般においてです)
ただ、やみくもに、高機能な応用ソフトの開発を目指しているかのようです。
その分、基本ソフトのほうには、まったく目が向けられていません。
そのため、基本ソフトの機能は低くバグ(不具合)だらけです。

これを、人に置き換えると、基本ソフトは「脳力」です。
そして、応用ソフトが「能力」ということになります。

では、私たちの脳は、どのようになっているのかというと...
たいへん高度な能力(応用ソフト)が搭載されています。
でも、その能力は、不完全な脳力(基本ソフト)の上で稼働しているのです。
そのため、十分に機能することができません。
また、失敗(エラー)が続発して当然ということになります。
つまり、成否のカギは、基本ソフトである脳力にあるのです。
脳力が正しくはたらくようになれば、能力を発揮できることになります。

形式重視か、事実重視か

では、脳力という観点から見た場合、
うまくいく人と、いかない人とでは、何が違うのかです。
実は、単純なことです。
うまくいく人は、事実に沿って判断し行動しています。
つまり、そういう人の脳には、
「形式(知識)を疑って事実に沿っているか検証する機能」が備わっているのです。

うまくいく人は、この機能のもとに答えを導き出しています。
そのため、結果的に、事実に沿った判断ができます。
しかし、うまくいかない人は、それができません。
そのため、想定外だった、となってしまうのです。

でも、形式とか事実と言われても、いま一つピンときません。
これは、消費期限に例えると分かりやすいと思います。

消費期限が無い時代は...
食べる際に、そのモノを匂ったり、味を確かめたりして食べていました。
それで、食べ物を無駄に捨てることもありませんでした。
また、腐ったものを食べることもありませんでした。
事実を把握し、事実に沿って判断し、行動していたのですから当然です。

しかし、今では、私たちは、消費期限という概念を知ってしまいました。
そのため、消費期限が過ぎたものは、食べられるものでも捨てられることになります。
逆に、期限内なら安心と、腐ったものを食べることにもなってしまいます。

とはいっても、消費期限を守らない人もいます。
そういう人は、ちゃんと匂いや味を確かめてから食べます。
つまり、消費期限を形式と捉えることができているのです。
そして、事実に沿って対応しています。

消費期限を守る人は、形式を基準にものごとを捉えています。
つまり、形式に、しばられているのです。
そのため、事実から外れた行動になっています。
したがって、想定外を招く可能性がでてくるのです。

このように、私たちは、言葉ひとつによっても行動が制御されてしまいます。
たとえば、「学歴」や「家柄」や「肩書」などを基準に、人を判断するというのも同じです。

形式論理(直接論理)に陥る

ここでは、もっと具体的に見ていきたいと思います。
ものごとの捉え方が、事実に沿っているかです。
事例として、ニュースでもよく取り上げられている「ナラ枯れ」の問題について考えてみます。

ナラ枯れとは、ナラ林の木々が枯れてしまう現象です。
ナラの木にキクイムシが潜入し、ナラ菌(カビ)を感染させることが原因とされています。
ニュースでは、ナラの害虫であるキクイムシをどうすれば退治できるか、という話になります。

こうした捉え方を形式論理といいます。
形式論理というのは、ものごとを形式的に捉えて組み立てられた理屈です。
形式的とは、「ありのまま」ではないということです。

ここに登場してくるのは、「ナラの木」と「キクイムシ」と「ナラ菌」です。
その三者間だけでの話です。
そして、時間軸(歴史的認識)がありません。
つまり、時空のほんの一部分しか捉えられていないことになります。
そのため、ナラ枯れの原因がキクイムシにあるかのように見えています。

でも、事象というのは、全体的・総合的・時相的(歴史的)な上に成り立っています。
そして、課題は、別個に存在しているわけではありません。
様々な要素が、複雑に絡み合っています。
そして、結果は見えますが、原因は見えません。
したがって、全体を総合的に、時相的に把握しなければなりません。
そして、そこから、各要素の関連性を明らかにしていかなければなりません。
その中から問題解決のカギを探し出していくというのが筋道です。
(ちなみに、こうした捉え方を「弁証法論理」といいます)

事実に沿って見ていくと...

かつての里山の林は、間伐などの手入れがされていました。
でも、最近では、放置され、木々が密集してきました。
木々が密集すると、地面に光が届かなくなります。
それでは、下草も生えることができません。
そして、保水能力もなくなり、栄養も枯渇します。
これでは、生き物も住めなくなります。

自然からすると...
これは、大変な状況です。
このままでは、あらゆるものが破たんに向かっていきます。
そこで、キクイムシの出番です。
キクイムシは、老いたナラの木に穴を開けます。
(次世代を担う若い木には穴を開けません)
そして、協力者であるナラ菌を伝染させて木を枯れさせます。
土に還す作業は、その他の虫や微生物が手伝ってくれます。

ところが、人間は、虫たちに殺虫剤を浴びせることになります。
そうすると、土壌などに住んでいる菌類など生き物が死んでしまいます。
菌類は、ナラの木に栄養を与えています。
その菌類が死んでしまうと若い木も弱ってしまいます。
そして、若い木も枯れて林全体がダメになってしまいます。

自然の森では、下草から低木~高木、昆虫や微生物など、生き物で埋め尽くされています。
すべて、その土地に選ばれた生き物たちです。
そんな中では、特定の虫が大量発生することはありません。
みんな、ひっそり暮らしています。
でも、そのバランスが崩れると、均衡を図るための作用がはたらきます。
その均衡を取り戻そうと、それぞれの役目を担った虫たちが登場してくるわけです。

つまり、キクイムシによって山が守られているのです。
もし、キクイムシがいなくなると山崩れや鉄砲水が起こります。
そして、私たちも大きな被害をこうむってしまうのです。

「心の癖」とは

このように見てくると、人の脳は、実は融通がきかないということが分かります。
いったん、根付いてしまった観念は、なかなか抜けないのです。
そして、その観念に無意識的に操られてしまうのです。
これは、「心の癖」と表現することができます。
癖ですから、自分で意識しない限り直らないのです。
では、いかにすれば、その癖を正せるのかです。
ここでは、家庭菜園を想定して考えていくことにします。

たとえば、菜園で害虫を見つけると...
たいへんだ!
被害が広がる前に全滅させなければ...と考えます。
そして、殺虫剤を散布しよう、となります。

このように、何か問題が発生すると対策を考えます。
どう対処することがベストなのか、と考えるわけですが...
でも、実は、こうした判断は、思考の過程を経て、導き出されるわけではありません。
その答えは、意識にのぼる前に、すでに決まっているのです。
したがって、それ以外の答えを導き出すことができません。
それを、自覚できないので「心の癖」と表現しているわけです。

害虫を見つけたら...
反射的に、それを抹殺しなければ、という考えが浮かんできます。
なぜならば、私たちの脳に、そういう回路が刻み込まれているからです。
害虫→悪い虫→見つけたら殺す、というような...
こうした言葉を、私たちは、子供の頃から数知れず耳にしてきました。
そのため、私たちの脳に、強く刻み込まれているのです。
いわゆるマインドコントロールです。
したがって、誰が何と言ったって、害虫は悪いとしか思えません。
殺すしかないのです。

また、中には、虫を見るだけで、身の毛もよだつという人もいます。
そういう人にとっては、それが害虫か益虫かは関係ありません。
虫であれば、殺虫剤をかけて皆殺しにしよう、ということになります。
なぜ、そういう行動をとってしまうかというと...
本人の「心の癖」が、そうさせているに過ぎません。

そういうのは、主観的なものです。
主観というのは、「好き嫌い」だけでなく...
憶測、印象、評価、仮定、希望的観測など、があります。
事実ではなく、感覚的・気分的なものです。
こうした思いつきが、判断を誤らせるもとになります。

何ごとも、うまくいくか、いかないかの分かれ道は...
こうした思い込みや主観を排除し、事実に沿って考え直せるかです。
でも、これは、一朝一夕にできるものではありません。
「心の癖」になっているのですから...

「心の癖」を正す

では、「心の癖」を正すには、どうすれば良いのかです。

まずは、思いついた考えを、いったん棚上げにすることです。
癖ですから、とにかく意識化しなければなりません。

そして、最も陥りやすいのが、結果を原因と勘違いする過ちです。
結果とは、表面化している現象(症状・欠点・患部など)のことです。
結果は、際だって目立っているため、どうしても、そこに目がいきます。
でも、そこを焦点に対策をしたところで、対症療法にしかなりません。
したがって、必ず弊害(副作用)を伴います。
重要なのは、問題解決のカギは、目立たないところに隠されているということです。

では、冷静になって、じっくり考えてみることにしましょう。

まずは、「木を見て森を見ず」にならないように全体を見渡します。
何ごとも、全体(潮流)をつかむことが先決です。
圧倒的多数の雑草や木々は、いくら周りに害虫がいても食べられません。
害虫は、あくまでも外因(条件)です。
したがって、害虫に食べられる要因(内因)がない雑草は食害されません。

そして、殺虫剤を撒いて、害虫を全滅させたとします。
それによって、表面的には、問題解決したように見えます。
でも、内因(原因)は残ったままです。
そればかりか、益虫なども殺して生態系のバランスも崩してしまうことになります。

このように見ていくと...
害虫は、原因ではなく、結果だと分かります。
目に見える事象はメッセージです。
つまり、害虫は、何らかのメッセージを発信してくれていることになります。

そして、野菜や土壌の「いのち」という内因に目が向くようになります。
その「いのち」の陰りが原因で、害虫は縁(条件)でしかないということが分かります。
そして、その陰りを取り除く方法を探ることができます。
適地適作に沿っていないのか?過剰施肥なのか?軟弱徒長しているのか?根張りは?など

こうした捉え方を意識して行っていると、脳細胞が正しく機能するようになってきます。
そして、重要なのは、それを日々繰り返し行い、習慣化していくということです。
それによって、瞬時に、正しい答えを導きだせるようになります。
それが、直感力の鍛錬です。
一般には、直感力は、非論理の感(第六感)のように思われていますが、それは大きな誤解です。
それでは、主観的過ちを犯してしまうことになります。

人工知能の時代に向けて

今の子供たちが、大人になる頃は、どんな世の中になっていることでしょう。
さらに、深刻さが増しているかも知れません。
はっきりしているのは、多くの仕事が人工知能ロボットに取って代わっているということです。
人工知能は、膨大な情報を瞬時に分析し的確に答えを出します。
そして、学習しながら知識を蓄えていくことができます。
今までのような、知識教育だけを受けてきた人たちでは、とうてい太刀打ちできません。
もしかしたら、人のほうが主体性を喪失しロボット化し、人工知能の指示のもとに働くことになるのかも知れません。
つまり、これからの教育では、人工知能社会を見据えたものでなければなりません。

人工知能は、今のお医者さんのような仕事は得意です。
診断したり治療したりというのは、人よりも迅速で的確にこなします。
端的にいうと、対症療法的(結果に対する)アプローチならアルゴリズム化できます。
(対症療法=形式論理で答えを導き出せるもの)
でも、根本療法的アプローチは、いくら人工知能でも困難です。
(根本療法=弁証法論理が必要なもの)

いずれは、様々な分野で、人工知能によって重大な決定が下されるようになるでしょう。
人工知能が神格化され、あがめられるようになるかも知れません。
今のうちに、何のための人工知能なのか、という哲学を明確にしておかなければなりません。
それがなければ、今の社会(経済至上主義)に流されるだけになってしまいます。
つまり、利益追求のために、大衆のニーズを満たすことだけが目的になってしまいます。
大衆が希求するのは特殊性や即効性です。(普遍性や持続性ではありません)
つまり、対症療法的アルゴリズムが発展していくことになります。

対症療法的アルゴリズムでは、一時しのぎしかできません。
それでは、いつまでたっても根本的な解決には行き着きません。
そればかりか、弊害が弊害を生んで、世の中がますます混迷を深めていきます。
そうならないために、人類は、どういった哲学のもとに人工知能戦略を立てるかです。

「対症療法」と「根本療法」

問題に対するアプローチには、「対症療法的アプローチ」と「根本療法的アプローチ」とがあります。
対症療法的アプローチとは、文字通り、症状(現象面・欠点・患部)を対象にします。
悪いところを探し出して、それを排除することで問題解決がはかられることになります。
これは、原因ではなく結果に対する対応ですので、一時しのぎにしかなりません。
したがって、解決できたかに見えても、新たな課題(副作用)が生じてきます。

根本療法的アプローチとは、文字通り、根本的に問題を解決するための方法です。
問題の本質に迫って、根本原因を解消することが目標になります。
根本原因の解消により、結果として現れている症状は自然に消失していきます。
(症状は、チェックポイントであって、処置の対象にはしません)

たとえば、子供の成績アップを例に考えてみると...
好きな科目をさらに伸ばすように導くのが根本療法的アプローチといえます。
それによって、苦手な科目の成績も上がっていきます。
つまり、優点を伸ばすことで、本質(支配的要素)である知的好奇心を養うというものです。

これが、対症療法的アプローチでは、表面化している欠点そのものが対象になります。
したがって、苦手な科目を無理に勉強させることになります。
それによって、目先の試験の点数を上げることはできます。
一見、成功したように見えますが、結果的には勉強嫌いになって知的好奇心も減退します。

この対症療法は、直接論理ですから単純明快です。
マニュアル化(アルゴリズム化)もできます。
それに比べ、根本療法では、全体的・総合的・多角度的・歴史的な把握が必要になります。
そのため、マニュアル化(アルゴリズム化)ができません。
したがって、人工知能に、根本療法の考え方を教えることが困難なのです。
その困難をいかに乗り越えるかが、人類の大きな課題といえます。

人工知能は原因究明は不得意

こういった話は、もっと具体的に見ていかないと分からないと分かりません。
そこで、人工知能は、どれくらいのことならできるのか、考えてみます。

たとえば、胃潰瘍の診断を例にすると...

胃に潰瘍ができるのは...
胃が、からっぽの状態で胃液が分泌されてしまうからです。
それによって、自分の胃を消化してしまいます。

胃に潰瘍ができるので、胃の病気です。
したがって、処置の対象は、胃です。
胃酸の分泌を抑える薬を投与したり、
重症なら、手術で悪いところを取り除きます。
これくらいなら、症状や検査内容などから診断できます。

でも、次のように原因究明し対策することは困難です。

潰瘍ができるのは、無秩序に胃液が分泌されてしまうからです。
なぜ、無秩序に胃液が分泌されてしまうのかというと...
胃に対する指令がチグハグになって胃が混乱してしまうからです。
その指令を出しているのは自律神経です。
その自律神経の乱れが原因ということになります。

では、なぜ、自律神経が乱れるかというと...
椎骨の位置がずれるからです。
それによって、椎間孔が変形し、自律神経を圧迫してしまいます。
その椎骨の位置を決めているのは、筋肉や靭帯です。
それらの筋平衡がアンバランスになっているということになります。

それを制御しているのが「錐体外路中枢」です。
その錐体外路中枢には、プログラムが内蔵されています。
そのプログラム癖こそが胃潰瘍の根因ということになります。

そして、その錐体外路中枢プログラムを解読します。
脳の各部位に散在したプログラムは、それぞれに特性を持っています。
その特性を活かすことで、そのプログラムを正すことができます。
それによって、筋平衡が正常化し、全ての症状が消失します。

人工知能は弁証法論理は不得意

ここでは、農業問題を例に考えてみます。

今、農業が、危機的状況にあるのは周知の事実です。
資材に頼り、化石燃料に頼る農法では、生産コストは、ますます上がっていきます。
市場が縮小し、価格競争が激しくなり、売上のほうは、どんどん下がっていきます。
干ばつやゲリラ豪雨など、異常気象も頻発し、収量は不安定になっていきます。
効率化最優先の農法では、「土壌の損耗」「生態系の破壊」が避けられず持続性が危ぶまれます。

次のように問題提起するとします。

農業は、儲からない。
売上から経費を差し引くと、わずかしか残りません。
利益を出すためには、いかにしてコストダウンできるかです。

農業は、安定しない。
相手は自然ですので、思い通りにはいきません。
特に、干ばつやゲリラ豪雨などの異常気象も増えることが予想されます。

農業は、持続性が難しい。
圃場の深耕により、作土の流失、有機物の損耗などが起こります。
ほとんどの圃場に硬盤層が形成されてしまっています。
圃場の保全を考えないと作物が育たなくなってしまいます。
虫や雑草の防除に、農薬が効かなくなっています。(薬剤抵抗性)

農業は、環境への悪影響が著しい。
農薬や肥料は地下水に混じり、川や海に流入し、生態系を蝕んでいます。
人目につかないところで多くの生き物が絶滅しています。
こうした環境破壊は、魚介類等をも含めた食料危機につながってしまいます。

農業ビジネスは、世の中の変化に対応できない。
価格競争のみに陥った産業は衰退していきます。
多様化する価値観に対応していかなければなりません。

このように、課題は山積みです。
対症療法的アプローチでは、課題のひとつひとつを焦点にして原因を探っていきます。
でも、それらの課題を切り離してしまうと、事実から離れてしまいます。
事実から離れてしまうと、正しい状況の把握にはなりません。
そのため、根本療法的アプローチでは、全体的に捉えていくことになります。
その上で、情勢分析していきます。

こうした課題は、単独で存在しているわけではありません。
様々な要素が関連し合っています。
その各要素間にも、主要なものと副次的なもの、支配的なものと従属的なものなど、様々な関係があります。
こうした関連性の把握こそが重要になります。

そして、各要素の関連性を把握した上で、対策の焦点を見定めていかなければなりません。
対策の焦点というのは、問題の本質部分です。
それさえ解決できたら他の問題(副次的な問題)は、自然に解消されていくというものです。
つまり、問題解決のためのカギです。

たとえば、ここで取り上げた課題のひとまとまりを一つの系とします。
その系の中に、問題解決のためのカギがあります。
それを、全力を上げて探っていくことになります。
しかし、そのカギは、平凡で、目立たない存在として隠されています。
したがって、もし、見つけたと思ったカギが目立っていたら、再検討しなければなりません。
(目立つものだったら、それは、原因ではなく結果です)

このように分析していくと、そのカギは、過剰施肥にあるということがわかります。
つまり、過剰施肥の問題を解決すれば、すべての問題が解消することになります。
そして、具体的に、過剰施肥による影響を探っていくと...

過剰施肥によりコストが上がる...(収益性)
肥料を購入するための経費がかかるというだけではありません。
過剰施肥になると、病虫害の被害が避けられず、農薬や殺菌剤が必須になってきます。
毛細根の発育を抑制し、リン酸を吸収できなくなりますので、生育の管理も大変になります。
無機態窒素が、作物と菌類との共生関係を断ち、連作障害を引き起こします。

過剰施肥により収量が不安定に...(安定性)
根張りが悪くなり、ひ弱に育ち、悪天候(異常気象)に対応できなくなります。
作物に過剰吸収された窒素の処理に、炭水化物が使われるため果実や根が育ちません。

過剰施肥により圃場がダメに...(持続性)
有機物が損耗すると、リン酸が金属イオンと結合して硬盤層を作ってしまいます。
生態系や微生物環境を壊し、作物の生育が悪くなります。
そして、土壌中の有機物を使い果たすと砂漠化してしまいます。

過剰施肥が環境を破壊する...(環境保全)
過剰施肥になると、農薬や殺菌剤も大量に使わなければなりません。
そのため、環境には大きな負荷がかかり、生態系をむしばんでしまいます。
硝酸態窒素が地下水などに浸透し飲料水などに悪影響を与えます。
海に流れ出た肥料分によって植物プランクトンが増殖し赤潮が発生します。
酸欠や有毒プランクトンによって、魚貝類を死に至らしめます。
蒸発した窒素分(亜酸化窒素)は、温室効果ガスとして地球温暖化を促進します。
また、オゾン層を破壊し、人体にも深刻な影響を与えます。

過剰施肥により商品価値が下がる...(商品価値)
過剰に吸収された窒素の処理に、炭水化物が使われるため糖度が上がりません。
作物体内の硝酸態窒素の含有量が増え、健康的でなくなります。
食味も落ちて、栄養価も低くなり、日持ちも悪くなります。

このように、全体把握によって、はじめて根因に行き着きます。
その根因(主要矛盾)を解消することで、副次的・従属的矛盾は、自然に消失していきます。

これは、家庭や会社・学校・地域・国・世界などの問題でも同様です。
こうした各系は、無数の問題で構成されています。
そして、これらの系の中には、必ず、ただひとつの本質的な問題があります。
それ以外の問題は、軽重の差こそあれ、すぺて副次的・従属的な問題であるにしか過ぎません。
したがって、それらを焦点にしたとしても根本的な解決にはなりません。
それでは、一時しのぎの対症療法となり、かえって問題をこじらせてしまいます。

たとえば、家庭の問題として、嫁姑の争いや子供の登校拒否などの問題がある場合...
夫婦間の問題が主要矛盾であれば、それが解決されない限り、嫁姑の争いも子供の登校拒否も解決しません。
中東における問題の本質は、アラブ対イスラエルの対立(パレスチナ問題)にあります。
その主要な問題に目をつぶって、いくら武力で解決しようとしても問題解決にはなりません。
状況をますます複雑化させるだけです。
世界に目を向けると...
「新植民地主義支配(経済的・教育的従属化)」と「収奪され続けてきた旧植民地諸国」との間の対立があります。
この主要な問題を踏まえて情勢判断を行っていかない限り、根本解決には至りません。
貿易摩擦・外交政策・国連改革・経済政策も、全てが小手先の対症療法に終わってしまいます。

つまり、未来を開くために必要なのは、根本療法の観点です。
そして、それをもとにしてアルゴリズムを開発していかなければなりません。
そのための人材をいかにして育成していけるかです。

人類史をリードしているのは圧倒的多数の大衆です。
その大衆の「自覚できない意識」こそが人類史を方向づける決定的支配的要素となります。
そこに、根本療法を選択する回路が刻まれなければ、あらゆる問題は対症療法的に処理されることになります。
それでは、この世の中は混迷を極め、人類史も破たんに向かうことになってしまいます。