先哲の智慧に学ぶ(真の主体性を確立するには)

真の主体性とは

 今の子供たちが大人になる頃は、AIが社会を一変させています。
 私たちは、子供たちを、どう導いて行けば良いのでしょう。
 今の教育が、そんな未来を見すえて変わっていくのかというと...
 それは難しいでしょう。
 おそらく、時代に追いつこうと、即物的教育へと邁進していくのでは?

 子供たちは、こまぎれの知識を詰め込むことに励み...
 遊びに夢中になるという経験(自らで創意工夫する実体験)も与えられず...
 好奇心の芽も摘まれ...型に嵌められ...自己を喪失し...自らの存在意義も見いだせず...
 頭でっかちのロボットと化していくのでしょう。
 逆に、機械のロボットは高度化し、その能力は人を凌駕していきます。
 人が、いくら大量の教科書を丸暗記したところでAIには到底かないません。

 そうなると、何でもAI任せになって、人の頭脳が、さらに劣化していくでしょう。
 そして、高度化した仮想の世界は、現実の世界よりリアリティーを増していきます。
 多くの人々が居場所を求めて、仮想の世界へ逃避していくことになるのかもしれません。
 そんな中で、人は、いかにして、アイデンティティーを保っていけるのかです。
 主体性を喪失すると、高性能ロボットに従う人間ロボットになるしかなくなるわけです。

 では、主体性を確立するとは、どういうことなのでしょう。
 その辺を明確にしないことには何も始まりません。
 たとえば、自らで進んで勉強に励み、成績優秀な子供がいるとします。
 はたして、そういう子供は、主体性を持っていると言えるのかです。
 そして、どんな社会になってもアイデンティティーを保っていけるのかです。

 いくら、自らで進んで勉強に励んでいるように見えても...
 それは、叱られないためなのかも知れません。
 または、褒められたいからなのかも知れません。
 それとも、勉強しないと良い大学に入れないからとか、出世できないからとか、
 お金儲けできないからとか...
 外から植え付けられた価値観(観念)に操られているだけなのかも知れません。
 それでは、プログラミングされたロボットと変わりません。
 したがって、自らの生きる意味や意義を見いだせないわけです。

「天資」を見抜くために

 福沢諭吉の言葉に、
 「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」(岩波文庫『福沢諭吉教育論集』)
 とあります。
 「教育」という表現は、「教え育てる(押し付け)」であって、これは妥当ではなく、
 「天資の発達を妨げない発育」ことが大切だということです。

 では、「天資」とは何なのかです。
 文字からすると、天の資質(たね)ということになります。
 「天」というのは、現象(自然)とは違う次元のことです。
 今の時代は、「自然(現象)」も「天然(天)」も同じような意味で使われています。
 したがって、まずは、これらを分けて考えることにします。

 私たちは、「自然」を、感覚器官を通して捉えることができます。
 見たり、聴いたり、触ったりなどができるわけです。
 それは、現象の世界(自然現象)だからです。
 「自然」は、現象(現れた形)ですから、厳然と実在しているものではありません。
 この現象世界(宇宙)を物理的に見れば...
 時間と空間とが湾曲して、スピンを持って回っているだけの世界です。
 そのスピンが回り疲れたら消滅して、もとの無に帰してしまいます。
 つまり、泡沫(バブル)のように現れては消える世界なので、現象世界と言っているわけです。

 「天然」は、それとは真逆で、厳然と実在しています。
 現象ではないので、運動変化、発展も消滅もありません。
 したがって、私たちは、「天然」を直接的に認識(観測)することができません。
 見たり、聴いたり、触ったりができないのです。
 そのため、自然科学の対象から除外されることになります。
 したがって、同じ次元の「天資」も認めることができないわけです。

 でも、これだけでは、よく分かりません。
 そこで、今度は、「いのち」と「生命」とを分けて考えることにします。
 「天資」=「いのち」+「生命」と考えると分かりやすくなるからです。
 「天」が「いのち」で、「資(たね)」が「生命」です。

 とはいっても、今の時代、「いのち」と「生命」も明確に区別されていません。
 「生命」というのは、死んだら無くなってしまう生物学的な命のことです。
 これは、明確に定義されていますので容易に理解できます。
 そして、それに付随するのが「心」や「身体」です。
 「心」や「身体」も、「生命」と一緒で、死んだら無くなってしまいます。
 つまり、これらは、現象ですから泡沫のように消えてしまうわけです。

 「いのち」のほうは現象ではありません。
 したがって、つかみ所が無く、容易には理解できません。
 でも、私たちは、何となくは理解しているようです。
 この「いのち」という言葉には、深い意味が込められているということを...

 ここで、考えていきたいのは、この「いのち」のほうです。
 仏教で言うところの八正道の第一に述べられているほどに大事なものです。
 つまり、「正見」です。
 まずは、目に映らない「いのち」を見抜かなければならないということです。
 そして、現象面を、ありのままに捉えなければなりません。
 それは、今まで見てきたように、一切の主観を交えずにです。
 では、どうすれば、その「いのち」を見抜くことができるのかです。

 実は、こうした探求は、古来から多くの先哲たちによってなされてきました。
 そして、命がけで、実践し証しされてきたわけです。
 ここでは、そんな先哲に学んでいきたいと思います。

「永遠のいのち」とは

 私たちには、本質的な疑問があります。
 私たち人類は、何のために生まれて来たの?
 何をすべきなの?
 死んだら、どうなるの? など...
 そういった、大局的理解が無いと、どうしても周りに流されてしまいます。
 それが有ってこそ、自らの特殊性を見つけ、人生目標を確立できるわけです。

 そういったことを探っていくにあたって...
 私たちが、頻繁に目にする「南無阿弥陀仏」という言葉を糸口にしたいと思います。
 この「南無阿弥陀仏」という言葉は、漢字に意味があるわけではありません。
 単なる当て字です。
 言葉の語源は、サンスクリット語で、ナモー・アミターユスと言います。

 漢訳したのは、西遊記でおなじみの玄奘三蔵(三蔵法師)です。
 では、なぜ、当て字にしたのかというと...
 へたに訳すと、誤解を招いてしまうからです。
 そのため、訳すことはせず、当て字で「南無阿弥陀仏」としたわけです。
 つまり、それだけ、大切な言葉だということです。

 まず、その意味ですが...
 アミターユス(阿弥陀仏)とは、「永遠(とこしえ)のいのち」という意味です。
 ナモー(南無)は、「帰依(きえ)」や「帰命(きみょう)」という意味です。
 私たちには、「帰一(きいつ)」というのが分かりやすいかも知れません。
 つまり、「永遠のいのちとひとつになります」という意味になります。

 では、その「永遠のいのち」とは、何なのかです。
 それを、明らかにしないことには、何も始まりません。
 そこで、まずは、その辺から見ていくことにします。

 「永遠のいのち」とは、永遠に続く「いのち」ということです。
 でも、私たちが現に生きているこの世の中には、「永遠」は存在しえません。

 前章で触れたように、この世の中は、「現象」の世界です。
 泡沫のように現れては消える世界です。
 この世では、生まれたものは、いつかは死んでしまいます。
 隆々と発展してきた大企業であっても、衰退していきます。
 どんな硬い固形物でも、いつかは、崩壊して無くなってしまいます。
 全ては、ー瞬でも、その状態で有り続けることができないわけです。
 つまり、この世の中は、生者必滅・万物流転・諸行無常ということです。
 こうして見てくると...
 「永遠のいのち」とは、この「現象界」とは別次元のものだと分かります。

 でも、そんなことを言われても、訳が分かりません...となります。
 理解できないのが当然です。
 逆に、分かったつもりになるのが問題なのです。
 実は、ここが、大きな分かれ道です。
 次に、聖書から、それを探っていくことにしましょう。

「聖書」に学ぶ

 「狭い門」から入りなさい。
 滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
 しかし、「いのち」に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
 それを見いだす者は少ない。(マタイによる福音書7:13)
 この「狭い門」に入れば、求めれば与えられ、探せば見つかり、門を叩けば開かれ、
 そしてくびきは負い易く、荷は軽い。(マタイによる福音書11:30)

 きらびやか(特殊)で「広い門」があるとします。
 その横には、地味(普遍)な「狭い門」があります。
 どっちに入りたいかというと、やっぱり、「広い門」です。
 「狭い門」は、目にも入りません。
 それで、みんなワイワイガヤガヤと連れだって、「広い門」をくぐっていきます。
 この「狭い門」というのは、仏教で言うところの他力門です。(後で詳述します)
 それは、地味(普遍)で、見いだすのが、とても難しいのです。
 でも、もし、それを、見いだすことができれば、
 求めれば与えられ、探せば見つかり、門を叩けば開かれます。
 (仏教で言うところの他力易行道です)
 また、イエスは、弟子たちに、民衆は、天の国の秘密を悟ることが許されていないので、真実は語らないと明言しています。

 弟子たちはイエスに近寄って、
 「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
 イエスはお答えになった。
 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。
 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
 イザヤの預言は、彼らによって実現した。
 「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。」 (マタイによる福音書13:14・15)

 では、なぜ、「狭い門」を見いだすのが至難なのかです。
 これが、イエス様に、直接、教われるなら良いのですが...
 また、人を見て法(ダルマ)を説くで、お釈迦様に、直接、法を説いてもらえれば良いのですが...(法=永遠のいのち)
 今となっては、そうもいきません。

 それは、人々に語り告がれる過程で、どんどん、変質してくるからです。
 たとえ、直伝された弟子たちが、正しく説明したとしても...
 必ず、言われます。
 「それではよく分からない、もっと具体的に説明して欲しい」と...
 具体的に、というのは、擬人化や偶像化するということです。
 そして、たとえ話にして、説明することになります。
 それなら、単純明快で、誰にでも理解できます。
 それが、一人歩きし、広まっていくことになります。
 そして、これは分かりやすいということで...
 伝え聞いた人々は、何も考えずに、そこに飛び込むことになります。
 つまり、「永遠のいのち」を、「現象」に引きずり下ろすことになるのです。
 それで、根本的に間違ってしまうわけです。

 このように、「広い門」から入って、「現象」とひとつになるのは容易です。
 「現象」とひとつになると、当然のこと...
 形にとらわれ、形式主義(パリサイ人)・教条主義に陥ってしまいます。
 御利益信仰の対象としての「神様(現象神)・仏様(現象仏)」と結びついてしまいます。
 偶像(現象)崇拝や神秘主義(スピリチュアル)に落ち込んでしまいます。
 そして、肝心の「永遠のいのち」からは目が離れ、滅びに至ることになるわけです。

「般若心経」に学ぶ

 では、今の私たちは、あきらめなければならないのかというと...
 そうでもありません。
 私たちにも分かるように、ちゃんと天の国の秘密を、書き残してくださった人がいました。
 それは、インド仏教の僧であり哲学者でもある龍樹(りゅうじゅ)という方です。
 その内容が、私たちにも、なじみある般若心経に記されています。
 この般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)とは、「悟りに至る真の智慧の核心の教え」という意味だそうです。
 これが、とてつもなく、すごいもので、日本中で、唱えられることになったわけです。

 そこで、ここでは、その内容に触れていきたいと思います。
 でも、大事なことがあります。
 それは、私たちは、これを、学問として学ぶわけではありません。
 自らの人生に活かしていきたいわけです。
 そして、真実を見抜く目を養いたいのです。(智慧の核心なのですから)
 したがって、いかに実践するかが重要となります。
 そのための方法論として捉えていく必要があるわけです。
 では、まずは、直訳してみます。

 観自在菩薩    (観自在菩薩が)
 行深般若波羅蜜多時(深い般若波羅蜜多を行じし時)
 照見五蘊皆空   (宇宙の全ては空であることを見通されることによって)
 度一切苦厄    (一切の苦しみ厄害から救われた)
 舎利子      (舎利子よ)
 色不異空     (物質現象界は空に異ならず)
 空不異色     (空は物質現象界に異ならず)
 色即是空     (物質現象界は即ち是れ空なり)
 空即是色     (空は即ちこれ物質現象界なり)
 受想行識     (受けた感覚で想い、想いから実践に移し、認識を高める)
 亦復如是     (また同様である)
 舎利子      (舎利子よ)
 是諸法空相    (この諸法は、空の相である)
 不生不滅     (生ずるのでもなく、滅するのでもない)
 不垢不浄     (汚れているのでもなく、清らかでもない)
 不増不減     (増えるのでもなく、減るのでもない)
 是故空中無色   (これゆえに空の中に色もなく)
 無受想行識    (受想行識もない)
 無眼耳鼻舌身意  (眼・耳・鼻・舌・身・意もなく)
 無色声香味触法  (色・声・香・味・触・法もなく)
 無眼界      (眼界もなく)
 乃至無意識界   (意識界までもない)
 無無明      (無明もなく)
 亦無無明尽    (また無明の尽くることもなく)
 乃至無老死    (老死までもなく)
 亦無老死尽    (また老死が尽きることもなく)
 無苦集滅道    (苦集滅道もない)

 (色=物質現象界) (受想行識=想念現象界) (五蘊=すべての現象世界)
 (受想行識=感性的認識を実践を通して理性的認識に高めていくこと)

 私たちの住む、この世の中は、客観的に見ると...
 「現象の世界」と「不生不滅の世界」とが重なり合ったものなのです。
 「現象の世界」は、有るかに見えていても本来「無」です。
 厳然と実在しているのは、「不生不滅の世界」のほうであって...
 思いわずらう前に、「不生不滅の世界」にこそ目を向けなさい。
 そうすれば、有ると思っていたものは、「無」だと気づかされるのです。
 そして、自由自在になれるのです。
 それによって、「不生不滅の世界」が、「実在」であることを証しできるのです。
 想念を与えられた私たちは、その責任を負っているのですよ。

言葉の整理

 この「永遠のいのち」に、いかに迫るかは、人類の究極の命題です。
 そのため、古来から多くの哲人たちによって探求されてきました。
 そして、様々な言葉で表現されています。
 そこで、ここで、言葉を整理しておきたいと思います。
 何を信じるかは、人それぞれです。
 なので、自分に合った言葉に、置き換えれば良いわけです。

 イエスやヨハネは、「ロゴス」(古代ギリシャ語)
 釈迦(仏教)は、「法(ダールマ)」
 親鸞聖人は、「阿弥陀仏(アミターユス)」(梵語)
 マハトマ・ガンディーは、「真理」
 中庸(儒教)では、「天」
 神道では、「アメノミナカヌシ」
 相似象(カタカムナ)では、「カム」
 ウパニシャッドでは、「梵(ブラーフマン)」
 (ウパニシャッドは、古代インドの哲学書の総称)
 出エジプト記では、「有りて在る者」(出エジプト記は、旧約聖書の一つ)
 ヘーゲルは、「イデー」(ドイツ語)
 など...

 聖書では、「ロゴス」は、「現象」の「レーマ」と混同されて訳されてしまいました。
 「ブラーフマン」は「ブラフマー神」、「アミターユス」は「阿弥陀様」など人格化されてきました。
 「カム」が、「カミ」になったり、など、現象化してきました。

 これらは、厳然と実在している「永遠のいのち」のことです。
 残念ながら、それを意味する共通語が存在しません。
 (そのため、宗教間での争いが起こるわけですが...)
 ここでは、厳然と実在しているということで、「実在」と表現することにします。
 または、マハトマ・ガンディーの言葉を借りて、「真理」と表現することにします。

簡易な図解にしてみる

 下記の図でいうと、「実在」が、背景の紫のシートだとします。
 私たち一人ひとりは、「個性(生命)」を持って、そこに張り付いています。
 私たちだけでなく、この世のあらゆる存在もです。

 それを、私たちの立場から見ると...
 私たちが実感できるのは、個性ある生命(偽我)です。
 そこに、絶対的存在である「いのち(真我)」が張り付いていることになります。

 つまり、私たち自身は、死んだら無くなる「生命(現象)」と、永遠に続く「いのち(実在)」との重合体ということになります。
 ウパニシャッドでは、これを「梵我一如」と表現しています。
 また、生命が尽きると同時に、「いのち」は「実在」に還元されます。
 絶対的存在に還元されるわけですから、個性はなくなります。

なぜ私たちが生まれてきたのか

 宇宙は、ビッグバンにより生まれました。
 では、どこから生まれたのかというと...
 不生不滅・不垢不浄・不増不減の「実在界」からです。
 「実在界」は、運動変化も無い、完全無欠な絶対的な世界です。
 宇宙は、それとは逆です。
 生者必滅・万物流転・諸行無常の世界です。
 つまり、ー瞬でも、その状態で有り続けることができない現象の世界です。

 では、なぜ、「実在界」が、この現象宇宙を創造する必要があったのかです。
 もし、「実在界」のみが、ただ実在しているだけだったら、と想像してみると...
 この「現象界」が無かったとしたらです。
 全ては絶対的存在に埋没し、運動変化の無い世界だけになってしまいます。

 「実在」が、実在であることを自証するには、「現象界」を生み出す必要があったわけです。
 でも、それだけでは、ハードであるお芝居の舞台ができたにすぎません。
 その舞台で、実際に、お芝居を演じる必要があります。
 そのために、「実在」自らが、生命をもって(身体や心をまとって)、この「現象界」に生まれてきたわけです。
 それが、私たち人間ということになります。
 (神の子・仏の子と言われるゆえんです)
 つまり、私たちは、「実在」が、実在であることを証しするという責務をもって、生まれてきたことになります。

 では、どうすれば、良いのかです。
 もちろん、「実在」を直接的に、感覚器官を通して捉えることはできません。
 実践を通して、状況証拠として証ししていくしかないわけです。
 つまり、自らで、行動していくしかないということになります。
 とはいっても、自分から、それを、つかみにいくことはできません。
 それをすると、「実在」を、「現象」に引きずり下ろすことになってしまいます。

マハトマ・ガンディーに学ぶ

 実践によって、「実在」を証しするとなると、ガンディーに学ぶしかありません。
 ガンディーは、「実在」のことを「真理」と表現しています。
 ガンディーは、その「真理」と共振することで、偉大な実践力を獲得しました。
 そして、サチャグラハ(真理把持)運動という形で、その「真理」を証ししました。
 それが、全インドの大衆とも共振し、拳銃の弾丸一発も撃つことなしに、インドを英国の支配から解放し独立に導いたのでした。
 「ガーンディー聖書」では、「真理」について、次のように説明しています。

 真理(Satya)なる言葉はサット(sat)から来たのである。
 サットは、存在更に実在を意味する。
 そもそも物の本質を究明すれば、世の中には何物も存在しないのである。
 存在するのはただ真理だけである。
 しかして我々は唯一神の存在を認めるのであるから、結局 sat 即ち真理は最も重要なる神の別名である。更に進んで、「神は真理である」というよりも、「真理が神である」というのが一層正しいのである。
 我々は君主或るいわ将軍と呼ぶように、神を王の王又は全能者と普通称えているけれども、少しく深く考えれば、神の呼び方としては、「真理」というのが正確完全で、唯一のものであることを理解するであろう。
 我々が真理を体得して始めて真知が生れる、真理の伴わざる知識は真知ではない。
 それ故我々は神なる意義に真知を付け加えるのである。
 真知のあるところ常に歓喜が伴い、いかなる苦痛も存在の余地がない。
 真理が無窮であると同様に、それから生れる歓喜も亦無窮である。
 それ故「実在-真知-歓喜」なる意義の下に神を認識するのである。
 即ち紳はこれらの三位を一体化したものである。
 この真理に封する信仰あってこそ、我々の存在に価値ありというべきである。
 真理が人間活動の中心であり、生命である。
 修行者がこの信仰に達すれぱ、何ら努力せずして、自然に人生上一切の規範を見出し、且つこれに従うものである。
 真理を解せずば、いかなる原則も規範も認識出来ないのである。

 私たちが生まれてきたのは、「真理」とひとつになるためでした。
 (つまり、「ナモー・アミターユス」です)
 私たちは、それを追求していくことによって、絶大な力を獲得できます。
 また、そこから、「真理」が愛であることを証しする行動がにじみ出てきます。

 ところが、この証しは、「現象」を通して行われることになります。
 そのため、手段であるはずの「現象」が目的となってしまうのです。
 そして、肝心の「真理」のほうには目が向かなくなっていきます。
 そもそもが、そういう錯覚が起こるように仕組まれているのですから...

 そして、「現象界」の中に、神(現象神)を創り出すことになります。
 つまり、この「現象界」に、絶対的存在を持ち込むことになるのです。
 この「現象界」は、不断に運動し変化している相対的な世界です。
 そこに、絶対的存在を持ち込むことは許されません。
 それこそ、神(カム)に対する反逆です。
 なぜならば、それは、偶像化し個性(相対)を持ってしまうからです。

 そうなると、その人にとっては絶対でも、他の人からはそうは見えません。
 なので、「こっちが本物でそっちは偽物だ」、「いや違う、そっちが偽物で、こっちが本物だ」ということになってしまいます。
 そして、闘争を生んで、滅びへと向かうのです。

 ガンディーは、
 「(あなたが信じる)神は真理である」というよりも、
 「(あなたが目指す)真理が神(という名)である」
というのが一層正しいのである...という宗教改革宣言を行ったのでした。

 つまり、あなたが信じる神は、真理へ行き着くための手段であると...
 そうすると、全ての宗教の目指すべき方向は一緒で、いがみ合う必要はないということです。
 ガンディーは、この「真理」の立場から、イスラム、ヒンドゥー教、シク教などの間に橋を架け、各宗教間の寛容を説き、「真理」を証ししたのでした。

私たちの立場から見ると

 ガンディーは、「真理」には、人類史をリードするほどの力が内在されているということを証明しました。
 ガンディーは、それを「胸奥の真言」と表現しています。
 その力は、当然、私たちにも備わっています。
 では、私たちは、どう実践していけば良いのかです。
 ここでは、より具体的に見ていきたいと思います。

 普段、私たちは、空気の存在を意識することはありません。
 それは、空気の中に、どっぷり漬かっているからに他なりません。
 空気の存在に気づくのは、空気が無くなって、酸欠に陥った時です。
 そうなって、初めて、空気のありがたさを、しみじみ感じることができます。
 私たちが生まれてきたのは、そういった世界です。
 したがって、常に、欠乏状態がつきまとってきます。

 そんな中で、私たちは、日々あくせくすることになります。
 したがって、「心」が落ち込んでいくのもやむをえません。
 そして、そんな「心」を何とかしようと、励むことになります。
 前向きになろう、前向きになろうと...
 でも、それでは、自分が後ろ向きな人間だと、再認識させられるだけです。
 思いわずらいを鎮めようと、すればするほど膨らんでいきます。
 そして、その悪循環から抜け出せなくなってしまいます。
 最後は、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になってしまいます。

 そんな中で、気づきます。
 「心」を同じ次元の「心」で制御することなんてできないんだなぁと...
 そして、自らの存在に目が向くようになります。
 それで、はじめて、「いのち」の次元に気づきます。
 そして、実は自分の主体というのは完全無欠であるということを悟ります。
 それによって、はじめて、自在性を獲得できるわけです。
 心や身体が病むというのは、「いのち」に気づくためなのですから...
 そのために、与えられた心や身体です。
 「いのち」に気づけば、病む必要はなくなり、病気も消えていきます。
 道元禅師の言葉を借りると...
 ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より(実在の次元から)行われて、これにしたがいもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。(正法眼蔵生死の巻)

 大事なのは、「仏の方より(実在の次元から)行われて...」です。
 自分の方から、「実在」をつかみにいってもダメです。
 最初は、みんな、理屈でつかもうとします。
 でも、言葉は「現象」です。それを認識する脳(心)も「現象」です。
 その「現象」を通してでは、「実在」を認識しようがありません。
 そこを突き詰めていくと、「実在」を観念論的に捉えるという過ちを犯すことになります。
 つまり、「実在」を現象に、引きずり下ろすことになってしまいます。

 理屈を追求することは、とても、大事なことです。
 それによって、「真理」に近づくことはできます。
 でも、究極的に、それを、つかまえることはできません。
 それでは、どうすれば良いのかです。

 私たちのベクトルを「実在」のベクトルに合わせるしかありません。
 これは、たとえてみると、テレビのようなものです。
 テレビ局からの送信電波は、常に周りに放たれています。
 でも、アンテナの方向がそっぽを向いていたら受信できません。
 アンテナを、電波の方向に向けることで、テレビが映るようになります。
 これと同じです。
 私たちが、「実在」の方に、面(おもて)を向けるということが必要なのです。
 それによって、はじめて、「実在」と私たちの「いのち」とが共振します。

 私たちは、常に、「実在」のほうから見守られています。
 それは、母親が、遊んでいる子供を見守っているようにです。
 子供のほうは、時々、母親のほうに面を向けてその表情を確認します。
 そして、母の愛に理屈抜きに共振します。
 その共振による安心感で、恐れも無く、のびのびと成長できるわけです。
 同じように、私たちは、「実在」に面を向けることで、「実在」の限りない愛に共振することになります。
 そして、「実在」の自覚がにじみ出し「無畏(むい)」となるわけです。

 「実在」というのは、確かに、完全無欠で全知全能で自由自在です。
 そして、私たちの「いのち」は、その「実在」と一如(梵我一如)なのですが...
 私たちは、「実在」から派生している現象体です。
 したがって、私たちの側から、直接的に、その力を発揮することができません。
 でも、自分のベクトル方向を決めることは自由にできます。
 自由であるがゆえに、つい私たちは、「実在」から目をそらすことになります。

「真理」と「いのち」の統一

 それでは、どのようにすれば良いのかというと...
 「実在」に面(おもて)を向けて、お願いすれば良いのです。
 そうすれば、「実在」のほうから私たちの「いのち」をつかまえてくれます。
 ただし、「実在」というのは、「現象」とは、質的には、まったく正反対です。
 なので、「現象面」には、一切タッチしてくれません。
 したがって、「現象」のこと(御利益)をお願いするというのは許されません。
 そういうお願いをすると、「現象」の方に共振し、つかまってしまいます。
 それでは、逆に主体性を失って右往左往し、滅びに至ることになります。
 したがって、自らで、ベクトル方向を明確にする必要があるわけです。

 私たちの本質は、「いのち(真我)」です。
 たとえて考えてみると...
 「いのち」は、完全無欠のダイヤモンドのようなものです。
 でも、「現象界」の中では、ホコリをかぶってしまいます。
 そのホコリを吹き消してもらえれば、自ずと輝きを取り戻すことができます。
 「実在」からすると、それは、容易なことです。
 「実在」が、私たちに対してできるのは、ただ、それだけです。
 私たちの「いのち」を光輝かしてくれるだけです。
 これは、親鸞聖人の言葉を借りると、「他力本願」ということになります。
 弥陀の本願信ずべし(「実在」に共振し帰一すると)本願信ずる人はみな摂取不捨の利益にて無上覚(この上ない仏の悟り)をばさとるなり。(親鸞和讃)

 つまり、「実在」に共振し、ひとつになれば、誰もが平等に最上の悟りを得られるんですよ... ということです。
 その「実在」に共振し、ひとつになるというのは、実は、とても容易なことです。
 苦行を積んで、こちら側からつかまえに行くの(自力難行道)ではありません。
 「実在」の方からつかまえてもらうの(他力易行道)ですから。
 「狭き門」なのは、それを見いだすことが難しいというだけです。
 見いだすことさえできれば、
 求めれば与えられ、探せば見つかり、門を叩けば開かれるのです。

 そのためには、「実在」に、お願いするだけです。
 『私の「いのち」を光輝かしてください』ということを...
 その瞬間に、私たちの「いのち」は、「実在」と共振し、光輝かされます。
 そして、それが、現象である「生命」にも波及し、陰りがなくなります。
 それによって、「心」は円く暖かくなり始め、身体の筋平衡も整い始めます。
 そして、「現象界」における実践力は、自然(じねん)に、にじみ出てきます。
 それは、認められよう、褒められようなど、心から出てくるものとは違います。
 ねばならない(努力によって成し遂げよう)という偽善ではなく、せずばおれないという「いのち」からにじみ出す力です。
 それは、親鸞聖人がいうように、誰が行ってもそうなります。

 しかし、忘れてはいけないことがあります。
 それは、私たちが、お願いしているのは、「現象界」からということです。
 「現象界」というのは、不断に運動し変化しています。
 その状態であり続けるということはできません。
 つまり、そういう思念も長続きしないのです。
 「実在」と共振し、ひとつになることは容易なのですが...
 ひとつになり続けることが難しいのです。
 「現象界」にいる限り、消えたと思ったホコリは、すぐに溜まりだします。

 そこで、親鸞聖人が考えついたのが「代表行動」です。
 「代表行動」とは、行動に代表させることで、思念(祈り)を持続する方法です。
 つまり、「念仏」を「南無阿弥陀仏(「永遠のいのち」との共振)」の「代表行動」とすることで、祈り求めを続けようというものです。
 これを、言葉に代表させる場合は、「代表語(マントラ)」ということになります。

 つまり...
 宇宙に満ち満ちている阿弥陀仏(アミターユス)よ。
 私の「いのち」を、阿弥陀仏に共振させ、光り輝かせてください。
 宇宙の全「いのち」を、阿弥陀仏に共振させ、光り輝かせてください。
 宇宙の全「いのち」よ、私たちの「いのち」は、今、阿弥陀仏に共振し、光り輝かされています。
 阿弥陀仏に感謝いたしましょう。
 これら全ての祈りを、これから念仏を上げるという行動に代表させます。
 阿弥陀仏よ受け入れてください。
 ということを阿弥陀仏に申告しておいて、念仏を唱えるわけです。
 その間は、祈り求めの思念が続き、「実在」との統一が持続できるわけです。
 「他力」とはいっても、「実在」に面を向け続けるという行為は「自力」です。
 心をつくし思いをつくして、「実在」に面を向け続けるということが重要です。

 つまり、「現象」である言葉には、何の力もありません。
 私たちの思念が、言葉(行動)を介して「実在」との共振をはかり、
 それによって、「実在」から、私たちの「いのち」に対して作用がはたらき、
 その結果、現象である「生命」の陰りが消えるということになります。
 そして、本来(真我)の「実(在)力」が「現象面」に現れてくるというだけです。
 そのための「念仏」であり「代表行動」です。
 それは、苦心惨憺したものほど、潜在意識に刻み込まれ持続できます。
 「苦行(自力行)」の意味もそこにあります。
 こちらから「実在」をつかまえに行く手段としての苦行ではありません。
 「実在」の方から、つかまえてもらう(思念を刻み込む)ための苦行です。
 道元の言葉を借りると、「仏の方より行われる」ための禅です。
 これを間違うと、「現象」のほうに憑依されることになります。

 でも、私たちがそれをまねて、「念仏」を「代表行動」にする必要はありません。
 この「現象界」においては、人それぞれに背負っている歴史が違います。
 環境も違います。
 そして、各々、異なった段階にあって、異なった座標系をもっています。
 したがって、自分に合った方法を見いだすことこそが大切です。
 と同時に、それを他人に押し付けることも許されません。
 自分が、思いをつくせるようなものを「代表行動」にすれば良いのです。
 また、「阿弥陀仏」という言葉も、自分にしっくりくるものにすれば良いのです。
 (前章で述べたように、誰にでも通じる共通語はありません)
 もちろん、「実在」を意味する言葉でなければなりませんが...

 自分の仕事や趣味など日々の行動を「代表行動」にしても良いのです。
 でも、あまり抽象的すぎると、いつのまにか思念から消えてしまいます。
 具体的な行動のほうが、潜在意識に残ります。
 たとえば、家庭菜園をしている人だったら...

 宇宙に満ち満ちている真理よ。
 私の「いのち」を、真理に共振させ、光り輝かせてください。
 この菜園の「いのち」を、真理に共振させ、光り輝かせてください。
 この種の「いのち」を、真理に共振させ、光り輝かせてください。
 実った野菜を頂く人の「いのち」を、真理に共振させ光り輝かせてください。
 宇宙の全「いのち」を、真理に共振させ、光り輝かせてください。
 宇宙の全「いのち」よ、私たちの「いのち」は、今、真理に共振し、光り輝かされています。
 真理に感謝いたしましょう。
 これら全ての祈りを、これから心を込めて「種蒔き」をするという行動に代表させます。
 真理よ受け入れてください。
 というように、自分で納得できるように申告すれば良いのです。
 でも、なぜ、宇宙の全「いのち」を対象とするのでしょう。
 自分の家族や野菜だけを対象に、集中して光輝かせて欲しいし、
 害虫や病原菌は除外して欲しいと思うのが人情です。
 でも、「実在」からすると、それらの「いのち」は、全て同時で同所で一体です。
 そして、真理・非真理があるだけで、善も悪も、害も益もありません。

「心」と「身体」の統一

 今までは、「真理」と「いのち」の統一について考えてきました。
 ここでは、「心」と「身体」の統一について考えていきたいと思います。

 芸術にしろ音楽にしろ、心に共振しないものは認識できません。
 「心ここに在らざれば視れども見えず聴けども聞こえず」です。
 本を読んでも、読む人の心にあるか求めている部分しか共振しません。
 つまり、「心」の共振は、徹底して選択的ということになります。

 ところが、身体は、無選別に共振します。
 群遊魚は、大きな群れが、ひと固まりになって身をひるがえします。
 渡り鳥も見事な編隊飛行を繰り広げます。
 意識運動系を持たない鳥や魚は、無意識でこうした芸当をやってのけます。
 それは、身体(錐体外路系)に共振能力を備えているからに他なりません。
 そういった動物は、共振能力の獲得により生き残り、進化してきました。
 私たちが持つ無意識不随意の筋制御システム(錐体外路系)も同様です。
 私たちも、周りの人と共振し、影響し合うことになります。

 このように、心と身体は、共振特性が大きく異なります。
 したがって、分離しやすく、人間本来の真価を発揮できません。
 そこで、人類は、「心身一如」や「色心不二」を目指すことになります。

 では、心を鍛え、心を磨き、心を整えることで成就するでしょうか?
 心というのは、秋空に、たとえられるほどに変化が激しいものです。
 したがって、一時的に成就したとしても、長続きするものではありません。

 それでは、心を無にすることで成就するでしょうか?
 いわゆる「無念無想」や「虚心坦懐」、「無我」といった境地を目指すことによってです。
 しかし、心が空っぽ(虚)になると、大脳皮質の神経細胞は、他人の生体電磁波に共振し活動を始めます。
 そして、他人の想念を対向発生して、他人の心に入れ替わってしまいます。
 俗にいう憑依された状態になってしまいます。

 禅や瞑想などでも、多くの人たちが精神に異常をきたしてきました。
 (ヨガや気功・武術・滝行・催眠法・マインドフルネスなどでも同じです)
 それは、その言葉通りに受け取って、「無心」を目指してきたからです。
 または、「心」によって、その「心」をねじ曲げようとしてきたからです。

 「無我の境地」といっても、自己を虚(むな)しくすることではありません。
 「偽我」を捨てて、「真我」を光輝かすことを意味しています。
 そのためには、自分の本質である「真我」の自覚が必要ということになります。
 「自我」を喪失させてしまうと、精神的崩壊を招きやすくなります。
 たとえば、自分を持たない良い子に育ててしまった場合なども同様です。
 「自我」があるからこそ、「真我」にも気付くことができるのです。

 ここでの目的は、あくまでも、「心」と「身体」の統一です。
 でも、「心」が主役というわけではありません。
 「心」によって、何とかしようとすると間違ってしまいます。
 主役は、あくまで、実在の「いのち」です。
 それでは、どうすれば、心と身体を統ーできるのかというと...

 「臍下の一点」に「いのち」を著(つ)けることで成就します。
 「著ける」というのは、天台小止観の天台智顗の表現を拝借しています。
 「臍下の一点」というのは、おヘソの下の身体の中心です。
 大きさが無い“点”ですので、丹田とは意味合いが異なります。
 そう言われると、つい、下腹に力を込めてしまいます。
 それでは、その瞬間に、統一は破れてしまいます。
 科学的に行うには、必ず、点検確認のための手法が必要です。

 そこで、錐体外路系の護身反射機能を使ってフィードバックを行います。
 錐体外路系は全身にわたる筋肉に対しての制御を総括的に行っています。
 これは、身体においての決定的支配的要素です。
 そのひとつに、護身反射の機能があります。
 護身反射というのは、外力に対して身を護る機能です。
 姿勢を崩そうとする力にも瞬時に対応し、姿勢を維持します。

 「いのち」が人間本来の重心位置に著くと、「生命」の陰りが取り除かれます。
 (「生命」は、身体や心の基本ソフトです)
 そして、錐体外路系も研ぎ澄まされ護身反射もフルに機能します。
 しかし、「いのち」が臍下の一点に著いているかは意識ではわかりません。
 そのチェックに、姿勢を崩そうとする力に対する反応を見ることで行います。

 たとえば、チェックを受ける人が、片腕を前に水平に伸ぱします。
 その位置でカを抜いて楽にします。
 チェックする人は、その上腕部を下から軽く持ち上けるようにカを加えます。
 統一できていないと簡単に持ち上がります。
 腕の重みを腕の下面においている時には持ち上がりません。
 最初は、腕を垂らした状態から、腕の重みを感じながら持ち上げて、水平で止めると分かりやすいです。(止めても重みの感じはもち続けます)
 持ち上げられても、その力に対する応力が瞬時にはたらき姿勢を維持します。
 反射的(無意識的)に、「外力=応力」の力関係を維持するということです。

 意識で押し返した(抵抗した)場合は...
 下から持ち上げようとする力を抜くと、前に伸ばした腕は下がってしまいます。
 これでは、統一できていません。
 微動だにしない状態が、統一できている状態です。
 その時の「臍下の一点」の感じを会得するようにします。
 統一ができている状態では、腕が上がらないだけではありません。
 身体をどの方向から押してもビクともしません。
 立位の場合は、足裏の中心に重心がくることになります。
 また、筋平衡が整うことで、首の回旋や骨盤の傾きなども平衡化します。

 全身の筋平衡が達成され、姿勢もよくなります。
 集中力が高まり、注意力の分散もできるようになります。
 注意力の分散というのは、集中しながらも全体を把握できる能力のことです。
 (精神統一や精神集中のように、集中して周りが見えないというのではなく)
 たとえば、突発的な事故に対しても瞬時に全体を把握し、冷静に対処できることになります。

 単に静的な姿勢としての筋平衡だけではありません。
 動的な動作としての筋運動平衡も達成されます。
 また、不随意筋もフルに活用できるようになります。
 それにより、力むことなく最大限の力を発揮できるようになります。
 (力むと、統一は破れてしまいます)

 そこに、武道・武術や芸事・スポーツなどにおいて、「心身一如」が目標となるゆえんがあります。
 同時に、それらが、「心身一如」を続けるための手段となります。
 また、大脳核レベルの錐体外路中枢のプログラミングが効率的に行えるため上達も早くなります。
 身体の護身反射が最大限に高まりますので、ケガもしなくなります。

 単に、外力やケガなどから身を護れるだけではありません。
 歪んだ錐体外路系との共振で身体を壊してしまうのを防げます。
 たとえば、看護師さんや介護士さん、整体師さんなどは、患者さんの歪みを受けてしまいます。
 特に、思いやり深く、共感しやすい人は、その影響を受けてしまいます。
 (連合野と錐体外路系が密接に関連しているということです)
 統一していると、そういった歪みをはじくことができ、引きずり込まれません。
 つまり、燃え尽き症候群を防ぐことができます。
 共振を能動的に行うことで、逆に、患者さんを引き上げることができます。
 教育でいうと集団の共振効果による全体の引き上げを行うことができます。
 子供たちは、「こっくりさん」のような共振遊びで、頭がおかしくなるのを防ぐこともできます。
 悪意ある波動に操られることも防げます。
 ブームに流されたり、付和雷同に引きずられることもなくなります。

 心と身体の統一により錐体外路中枢のプログラムが整ってくると...
 全身の筋平衡が達成され、本来の生命力が発現します。
 そして、身体の歪みが消え始めます。
 ただし、統一をやめると、また、もとに戻ってしまいます。
 古くからある歪み(癖)は、ー朝ータに修正されるものではありません。
 つまり、統一の状態を維持し、身体(線条体)に、整った状態を覚えさせることが必要ということです。

 しかし、統一の状態を持続することは、容易ではありません。
 統一しようとしている心と身体は現象です。
 現象というのは、ー瞬も静止することなく、うつろいゆくものです。
 したがって、その状態であり続けるということはできません。

 心のはたらきにも強く影響を受けます。
 妬みや怒り・憎しみ・心配などで心が乱れていると、なかなか統一できません。
 その上で、常時統一の成就を目指し修行するのが「自力」の立場です。
 しかし、それは、誰にでもできるものではありませんでした。
 そうした中で、人類は、普遍的な方法として「他力」に到達することになります。
 つまり、心が乱れた時も、「他力本願」によって統一を持続できるということを発見したのでした。
 つまり、「真理」と「いのち」の統一を基盤にすることで、心と身体の統一の持続も可能になるということです。

未知なるものに操られないために

 主体性を確立するというのは、いうなれば、操られないということです。
 しかし、私たちは、マスコミやコマーシャルなどに日常的に操られています。
 そして、価値観を植え付けられ、行動していることになります。
 もっと、広い意味でいうと...
 私たちの思考は、現代の思想によって、かんじがらめにされているわけです。
 本来の自分を取り戻すというのは、容易なことではありません。

 まだ、論理が通用するなら、思慮することもできます。
 しかし、やっかいなのは、人は、未知なるものに弱いということです。
 未知なる恐怖に操られたり、未知なる力に依存したり、となるわけです。
 ここでは、その未知なるものに焦点を当ててみたいと思います。

 未知なる恐怖によって人を操るというのは...
 「先祖の供養が足りない」とか「前世のカルマだ」というようなものです。
 身近にもよくある話ですが...
 このような、霊的なもので人を操るというのは、太古から行われてきました。

 たとえば、古代インドにおけるカースト制度の時代です。
 当時(今も)の階級制度は、差別的で、職業も自由に選択できませんでした。
 低い階級に生まれた人たちは、疑問を持つことになります。
 なぜ、こんな階級に生まれ、虐げられなければならないのか?
 そんな思いが広がると、暴動にもなりかねません。
 そんな時、「前世の行いが悪いからだ」と言われたら反論できません。
 証明のしようがありませんから...
 それなら、現世では徳を積んで、来世に期待しようとなるわけです。
 つまり、こうした思想的武器で人々を操り、階級制度を維持してきたわけです。
 そんな、バラモンの社会を嘆いたのが、お釈迦様です。
 本来の「梵我一如」に戻れと、法(ダルマ)への回帰を宣言したのでした。
 そして、輪廻転生を否定し無(現象)神論をとなえました。
 このように、未知なる恐怖を用いると、容易に人々を操れるわけです。
 それが、現代でも、そのまま通用しています。
 それは、いまだに、霊的存在を信じている人が多いからといえます。

 でも、実際は、人は、死んだら身体も大脳皮質も焼かれて無くなります。
 生き続けるのは、「いのち」だけです。
 その「いのち」も、「実在」に還元されますので、個性はなくなります。
 「永遠のいのち」とひとつになるわけです。
 つまり、お葬式の掛け軸の通りで、ナモー・アミターユス(南無阿弥陀仏)です。

 とはいっても、現実には、霊障は起こっています。
 そのために、自らを守るすべは、心得ておかなければなりません。
 でも、それは、死んで浮かばれない霊が、悪さをするわけではありません。
 現に生きている人の仕業です。

 私たちの想念というのは、大脳のはたらきによって生み出されています。
 その大脳というのは、神経細胞の塊です。
 したがって、大脳がはたらくと、活動電位・活動電流を伴い、生体電磁場ができ、生体電磁波を出します。
 それによって、ホログラムを対向発生させることになります。
 いうなれば、静電誘導のようなものです。
 それは、外部に、現象化(客観化)したもので、霊ということができます。
 中には、それに、波長が合って、共振する人もでてくるわけです。
 すると、今度は、その人の脳に想念が対向発生することになります。
 それが、いわゆる憑依された状態です。
 これは、電流と磁界の関係(電磁誘導)のようなものといえます。
 想念が現象化し、その逆もありで、相互に転化し合うということです。
 (想念が霊を創り出し、その霊に共振した人の脳に想念が生じる)

 こうした霊を創り出すような人は、潜在意識での思い込みが強い人です。
 そういう人は、途切れること無く、持続的な想念がはたらいています。
 昔から、強い怨念が生き霊を創ると言われていますが...
 そうとも限らず、自分で(顕在意識で)意識していなくともです。
 それは、文化的背景や宗教感など、心の反映でもあります。
 たとえば、天使を心に描いている人は、天使(のようなもの)を創るわけです。
 そのため、日本と西洋・中国などでは、幽霊のキャラクターも異なってきます。
 同じように、あの世や、天国・地獄も現象化されていくことになります。

 したがって、この現象界には、無数の現象神(霊)が生まれてきます。
 たとえば、神社仏閣や仏像・お地蔵さん・パワースポットなどです。
 多くの人たちが想念を込めにくるところですから...
 そういったホログラムに、御利益を頂きに行くのがお参りといえます。
 それは、誰かが創った現象神との(相対的な)共振ですから相性もあります。
 相性が合うと、プラスにはたらいてくれる場合もあります。
 でも、なにしろ、相手は現象ですから、諸行無常で、気まぐれです。
 機嫌を損ねると、逆に、災いをもらったりすることもあるわけです。

 そして、気をつけなければいけないのが、虚心(心が空っぽ)の人です。
 または、その霊と波長が合った人です。
 気分や身体の具合がが悪くなる、というのは往々にしてあります。
 憑依されて、もはや自分ではなくなるというような場合もあります。

 これらは、他人の想念が創ったホログラムですが..
 もっと身近なのが、自らで創ったホログラムとの共振です。
 自らで創った幽霊に恐怖したり、自らで創った神様に共振し悟りを開いたと錯覚したり、自ら創ったあの世に行ったり...するわけです。

 こうした波動から身を護る方法が、「心」と「身体」の統一です。
 そして、「真理」と「いのち」とを統一することによって、霊も消失します。
 ホログラムを創っている人の潜在意識が浄化されるのですから...

 私たち人類は、生まれながらにして、操られやすいように創られています。
 しかし、それも、「真我」を見いだし、真の主体性を確立するためです。
 また、「現象神」がいるからこそ、「実在」にも目が向きます。
 それによって、「実在」が愛(自他一体)であることを証しできるわけです。