形式の世界からの脱却(根本療法の観点から)

なぜ社会は破たんへ向かうのか

 人類は、今、大きな岐路に立たされています。
 破たんへ向かうのか、それとも、持続への道を進むのかです。

 では、なぜ、持続が難しいのか考えてみると...
 人は、そもそも、先を見すえて行動するということが苦手です。
 とにかく、目先の問題を回避できれば...と考えがちです。
 その積み重ねで、いつかは根本解決に至るだろうということです。

 危機的状況が迫ると、それが、より鮮明になります。
 そして、対症療法(一時しのぎ)に邁進し、問題を複雑化させていきます。
 つまり、生じる副作用(弊害)に、さらに対症療法を重ねていくことになります。
 そのため、社会は複雑化し混迷を深めていきます。(悪循環に陥る)
 そのうちに、手に負えなくなるということです。
 破たんに向かう、絵に書いたようなシナリオです。

 このように、なぜ、社会が破たんに向かうのかは明白です。
 それは、私たち人類が、即効性や特殊性を希求し、対症療法に邁進しているからです。
 そのため、対症療法の悪循環に陥り、抜け出せないわけです。
 つまり、そこからの脱却を目指さなければならないということになります。
 そのために、必要になってくるのが根本療法という観点です。

AI(人工知能)は根本療法を理解できるのか?

 これからの社会を考える上で、外せないのがAIです。
 AIは、膨大な情報を瞬時に分析し、的確に答えを出します。
 そして、学習しながら知識を蓄えていくことができます。
 近い将来、AIが人類の知性を超えるのではと言われています。
 そんなAIなら、この世の中の様々な問題を根本解決に導いてくれるのでは...
 という期待も生まれます。
 でも、結論から言うと、AIにはそんな能力はありません。
 AIは、正しい情勢判断ができないからです。
 正しい情勢判断というのは、ありのままの状況を捉えて判断するということです。

 世の中の事象(様々な問題)は、どれも単独で存在しているわけではありません。
 色んな要素が、複雑に絡み合っています。
 その各要素間にも、主要なものと副次的なものなど、様々な関係があります。
 まずは、こうした全体の関連性を明らかにできなければなりません。
 そして、その中から問題解決のカギを探し出していくことになります。
 でも、そのカギは、特殊な中にあるのではなく、普遍的な中に隠されています。
 したがって、それを見つけ出すことは容易ではないのです。

 たとえば、お医者さんの仕事で考えてみると...
 胃潰瘍の診断をするとします。

 胃に潰瘍ができるのは...
 胃が、からっぽの状態で胃液が分泌されてしまうからです。
 それによって、自分の胃を消化してしまいます。
 胃に潰瘍ができるので、胃の病気です。
 したがって、処置の対象は、胃です。
 胃酸の分泌を抑える薬を投与したり、
 重症なら、手術で悪いところを取り除きます。
 これくらいなら、症状や検査内容などからAIでも診断できます。
 そのため、診断や治療は早晩、AI(ロボット)に置き換えられると言われているわけです。

 では、次のような診断はできるのでしょうか?

 潰瘍ができるのは、無秩序に胃液が分泌されてしまうからです。
 なぜ、無秩序に胃液が分泌されてしまうのかというと...
 胃に対する指令がチグハグになって胃が混乱してしまうからです。
 その指令を出しているのは自律神経です。
 その自律神経の乱れが原因ということになります。
 では、なぜ、自律神経が乱れるかというと...
 椎骨の位置がずれるからです。
 それによって、椎間孔が変形し、自律神経を圧迫してしまいます。
 その椎骨の位置を決めているのは、筋肉や靭帯です。
 それらの筋平衡がアンバランスになっているということになります。
 それを制御しているのが「錐体外路中枢」です。
 その錐体外路中枢には、プログラムが内蔵されています。
 そのプログラム癖こそが胃潰瘍の根因ということになります。
 それら、脳の各部位に散在したプログラムは、それぞれに特性を持っています。
 その特性を活かすことで、そのプログラムを正すことができます。
 それによって、根因である筋平衡が正常化し、全ての症状が消失することになります。

 いくら膨大な情報を扱えるAIであっても、このような原因究明はできません。
 また、全体を把握し、そこから主要矛盾を探ったり...
 長所を伸ばして欠点を消失させるというような弁証法的思考もできません。
 つまり、根本療法はできないということです。
 そもそもAIを開発するのは人です。
 したがって、開発者自身が根本療法を理解していかなければなりません。

 でも、今の教育では、それは無理です。
 今の科学(教育)では、ものごとを細分化して分析するという考えしかないからです。
 そのため、枝葉(現象面)にとらわれ、本質(隠れた部分)をつかめません。
 結果的に、生み出される方法は、対症療法にとどまってしまいます。

 今までは、経済を支えるような人材を育成していけば良かったのかもしれません。
 でも、世の中は大きく変わり、経済至上主義も崩壊に向かっています。
 端的にいうと、これからは、単純な(形式論理的な)仕事はAI任せにできます。
 そして、人は、人間本来の脳力を活かせるような仕事に注力できるようになります。
 今までのように、人をロボット化して働かせる必要はなくなるわけです。

 このように、世の中は、大きな転換期にあります。
 その世の中をリードすべき教育が、旧態依然のままでは、未来もままなりません。
 未来を見すえ、科学教育も次のステージへ押し上げていかなければなりません。
 どういったステージかというと...
 ものごとを弁証法的に捉え、総合科学的にアプローチできる能力の育成です。
 それができないと、根本療法的アルゴリズムも生まれてきません。

 したがって、日本の教育戦略としては...
 「弁証法的かつ総合科学的手法を基礎にAI時代に対応できる教育システムを構築し、根本療法を指向できる人材を育成するを要す」ということになるのではと思います。
 そうした教育変革のもとに、はじめて世界をリードできるAI戦略も生まれてきます。

「対症療法」と「根本療法」

 では、対症療法と根本療法とでは、何が違うのかです。
 今の社会では、この二つの方法論が明確に分けられていません。
 対症療法は、直接論理で単純明快です。(大衆に支持されやすい)
 事象を表面的に理解すれば事足ります。(主観的対応につながる)
 根本療法では、事象をまるごと把握(弁証法的に認識)できなければなりません。
 そのため、なかなか、社会に根本療法を指向するという風潮が芽生えてきません。
 それでは、いつまでたっても、対症療法の悪循環から抜け出せません。
 そこで、ここでは、これらを峻別しておきたいのです。

 対症療法では、文字通り、症状(現象面・欠点・患部)を対象にします。
 悪いところを探し出して、それを排除することで問題解決をはかります。
 これは、原因ではなく結果に対する対応です。
 そのため、即効性はありますが、一時しのぎにしかなりません。
 したがって、解決できたかに見えても、新たな課題(副作用)が生じてきます。

 根本療法では、文字通り、根本的な問題解決を目指します。
 問題の本質に迫って、根本原因を解消することが目標になります。
 そのため、全体的・総合的・多角度的・歴史的に把握できなければなりません。
 そして、実現には時間を要します。
 症状は、あくまでも、チェックポイントであって、処置の対象にはしません。
 原因の解消により、結果である症状は自然に消失していくことになります。

 たとえば、子供の成績アップを例に考えてみると...
 好きな科目をさらに伸ばすように導くのが根本療法といえます。
 それによって、苦手な科目の成績も上がっていきます。
 つまり、優点を伸ばすことが目標になります。
 それは、支配的要素である知的好奇心を養っていくためです。

 これが、対症療法では、表面化している欠点そのものが対象になります。
 したがって、苦手な科目を無理に勉強させることになります。
 それによって、目先の試験の点数を上げることはできます。
 でも、長期的に見ると、勉強嫌いになって知的好奇心も減退させてしまいます。

 このように、対症療法と根本療法では、目標も、対策の焦点も異なります。
 そのため、これらを明確に区別し、使い分けできなければなりません。
 それができないと、目先の問題を地道に解決していけば、いつか根本解決には行き着くという錯覚に陥ってしまうことになります。
 そして、対症療法の袋小路に入り込み、抜け出せなくなるわけです。

筋肉を揉みほぐすことはできるのか?

 まずは、身体を例に、思考実験してみることにしましょう。
 たとえば、肩が凝ったとします。
 筋肉が硬くなっているのだから、揉みほぐせば良い...
 ということで、叩いたり揉んだりします。
 実際に行ってみると、確かに軽くなった気にはなります。

 しかし、実際はというと...
 叩いたり揉んだりした刺激は、筋肉を制御している中枢に運ばれます。
 すると、そこから、刺激を受けた筋肉に対して、指令が出されます。
 「身を硬くして守れ」という指令です。
 したがって、次の日には、前にも増してひどくなります。
 こうしたことを続けていると、筋肉は、どんどん硬くなっていきます。
 すると、血圧が上がっていきます。
 血圧を上げないと、脳や各臓器に血が通わなくなってしまうからです。

 すると、今度は、上がった血圧を、お薬で下げられることになります。
 身体のほうは混乱してしまいます。
 血圧が下がると、血流がとどこおって、病気になってしまうからです。
 (実際に、脳梗塞や痴呆などを引き起こしてしまいます)
 そのため、身体のほうでは、さらに血圧を上げようとします。
 そして、危険な高血圧を招いてしまいます。
 (いったん、降圧剤を使い出すと、やめられないのはそのためです)

 また、こうした防御反応を邪魔するお薬は、身体にとっては毒です。
 そのため、身体のほうも、必死にお薬を解毒しようとします。
 そのため、お薬も徐々に効かなくなってきます。
 そして、さらに血圧が上がっていきます。
 運が良ければ、鼻血を出すことができます。
 血圧調整の安全弁がはたらくのです。
 ところが、「たいへんだ、早く止めないと...」ということになります。

 また、車に追突されて むち打ち になったとします。
 レントゲンで見ると、頸椎の間が詰まっています。
 詰まっているなら、引き伸ばせばいいということで...
 けん引という処置をします。
 縮んでいる筋肉を器械で引っ張って伸ばすのです。

 結果は、前例と同じです。
 引っ張られた筋肉は、身を守ろうとして、ますます縮んでいきます。
 私たちの筋肉は生きています。
 それを、揉みほぐしたり、引っ張って伸ばしたりできるはずがありません。

 これらは、あくまでも一例ですが...
 基本的に、世の中のあらゆる問題は、これらと同様に対処されています。
 したがって、いつまでたっても、根本解決には行きつかないわけです。
 それどころか、返って問題をこじらせ、複雑化させることになっていきます。

 なぜ、そうなるのかというと...
 物事の本質に目が向いていないからです。
 前例では、問題解決のカギは、ソフトウェアにあります。
 つまり、その筋肉を制御している中枢(錐体外路中枢プログラム)こそが決定的支配的要素(カギ)ということになります。
 硬くなっているとか、縮んでいるというのは、結果(症状)でしかありません。

 この現象世界は、自業自得の世界です。
 したがって、正しい見通しのもとに行動すれば、必ず、想定通りになります。
 その「正しい」か否かは、事実に沿っているかどうかです。
 そして、その事実は、この現象世界を貫く法則の上に成り立っています。
 その法則は、ソフトウェアであって、観測ができません。
 つまり、顕微鏡やレントゲン・CTなどを使ったところで把握できません。
 そのため、それを見いだすことが難しいわけです。
 ここでは、この「狭き門」に焦点を当てていきたいと思います。

形式の世界に落ち込む

 私たちが住む、この現象世界というのは、相対的な世界です。
 したがって、私たち一人ひとりが、自らの世界に生きていることになります。
 そして、みんな自分が実感している世界こそが事実だと錯覚しています。
 そのため、形式の世界に落ち込んで行くことにも気がつきません。
 それで、事実からは、どんどん乖離していくことになります。

 形式の世界というのは、簡単にいうと、形に当てはめた決め事の世界です。
 別の言い方をすると、時間や空間などが無い一面的に見た世界です。
 たとえば、硬くなっているのだから、揉みほぐせばよい。(前例のような)
 足りないものは、与えればよい。
 悪いものを排除していけば、良いものだけが残る。
 欠点を正していけば、優点だけが残る。
 というような直接論理ということもできます。

 これは、単純明快です。
 そのため、誰にでも、すぐに理解できます。
 大衆受けしますので、ビジネスにも結びついていきます。
 ○○をしたら痩せるとか、○○を食べたら健康になる、とかのたぐいです。
 そのため、世の中には、こうした情報が氾濫することになります。
 そして、私たちは、形式の世界に落ち込んでいくことになります。

 無防備でいると、何でも鵜呑みにするロボットと化してしまいます。
 マスコミやマニュアル本、占い、他人の助言などを盲信したりです。
 結局、他人や環境に支配され、自らを喪失していくことになります。
 こうした形式に沿った捉え方のことを、形式論理と言います。
 また、そういう考え方の人を形式主義者(または教条主義者)と言います。

 それは、一種のマインドコントロールですから、本人は気がつきません。
 本人にとっては、それが、事実としか思えないのですから...
 そのため、形式の世界から抜け出すことは容易ではないのです。

消費期限を守らないのは非常識?

 「形式の世界に落ち込む」というのを、具体例で見てみると...
 分かりやすいのが、消費期限です。

 消費期限が無い時代は...
 食べる際に、そのモノを匂ったり、味を確かめたりして食べていました。
 それで、食べ物を無駄に捨てることもありませんでした。
 それでいて、腐ったものを食べることもありませんでした。
 事実を把握し、事実に沿って判断し、行動していたのですから...

 しかし、今では、私たちは、消費期限という概念(形式)を知ってしまいました。
 そのため、消費期限が過ぎたものは、食べられるものでも捨てられることになります。
 逆に、期限内なら安心と、腐ったものを食べることにもなってしまいます。

 とはいっても、消費期限を守らない人もいます。
 そういう人は、ちゃんと匂いや味を確かめてから食べます。
 つまり、消費期限を形式と捉えることができているのです。
 そして、事実に沿って対応しています。
 つまり、そういう人の脳には、「形式(知識)を疑って事実に沿っているか検証する機能(脳回路)」が備わっているといえます。

 消費期限を厳守する人は、形式を基準にものごとを捉えています。
 つまり、形式を事実と誤認しているのです。
 そのため、事実から外れた行動になってしまいます。
 そして、想定外だった、となるわけです。

 これは、学歴や肩書・家柄・印象、他人の評価、などに置き換えても同じです。
 これらは、あくまでも形式(うわべ)であって、事実(実態)ではありません。
 したがって、そういったものを絶対化し、判断材料にすると、見込み違いになるわけです。

殺菌剤を撒くと清潔になるか?

 見込み通りの結果を得るには、それが事実に沿っているのか、自らで検証できなければなりません。
 でも、人は、目に見えているもの(現象面)こそが事実だと錯覚しがちです。
 したがって、それを疑い検証するというのは至難なことです。

 たとえば、清潔を保とうと、殺菌剤を撒くとします。
 すると、あらゆる常在菌が死にます。
 普通は、これで清潔になった、というように捉えます。
 (形式論理で見るとその通りです)
 でも、常在菌がいなくなると、食中毒菌の天下になります。
 (常在菌がいるところでは、食中毒菌は増えることはできません)
 そこに、食中毒菌が付着すると、爆発的に増殖することになります。

 そして、食中毒になって、お腹を壊しました。
 とにかく、菌をやっつけて、下痢を止めなければ、と考えます。
 (形式論理では、そういう対処になります)
 そして、抗生物質や下痢止めを飲ませます。
 すると、病原性大腸菌は死にました。
 そして、下痢も止まりました。
 (形式論理では、これで解決したことになります)

 でも、実際はというと...
 抗生物質を飲むと、病原性大腸菌は、お腹の中で毒素を出して死にます。
 腸内を守っている他の細菌たちも死にます。
 それによって、身体の免疫力も落ちることになります。
 そして、外に出そうとしている毒素が体内にとどまります。
 (下痢止めによって、腸の活動が抑えられて)
 その結果、腸の炎症を引き起こし、重篤な状態に陥いることになります。
 このように、人は、現象面(その時・その部分)にとらわれると、そこしか見えなくなり、対症療法に突き進むことになります。

インフルエンザについて考えてみる

 このように、形式論理に陥ると、現象面しか見えなくなるわけですが...
 そこから脱却するには、まずは、全体的に捉えられなければなりません。
 そこで、ここでは、立場や観点を変えて多角度的に見ていくことにします。
 それによって、初めて全体像が浮かび上がってきます。

 私たちが、インフルエンザにかかると...
 身体がだるくなって、食欲も無くなります。
 そして、震えがきて、熱が上がってきます。

 看病する立場からすると...(形式論理で考えると)
 栄養を摂らせて、体力を回復させなければ、と考えます。
 そして、無理にでも食べさせます。
 水分不足にならないようにということで、水を飲ませます。
 熱が出てきたということで、解熱剤を与えます。
 ウイルスの増殖を抑えなければ、ということでタミフルを服用させます。

 身体の立場からすると...(いのちのはたらきでは)
 食事を摂ると、消化や吸収など、無駄にエネルギーが消費されます。
 栄養分が入ってくると血液中の免疫細胞も活動できません。
 動き回ると体力も消耗してしまいます。

 そのため、身体がだるく動きたくなくなります。
 食欲を無くし、内臓の活動をひかえさせます。
 筋肉を小刻みに収縮させる(悪寒・震え)ことで、熱を作ります。
 免疫細胞を活性化し、ウイルスの活動を抑えるためです。
 つまり、身体が、臨戦態勢に入ろうとしているのです。

 そして、熱が上がれば、震えがおさまります。
 ウイルスを排除できれば、熱は下がります。
 水分を取り込める状態になれば、喉が渇きます。
 食べ物を消化吸収できるようになれば、食欲が出てきます。
 動けるようになれば、食事などの活動を始めます。

 ところが、そこに、食べものや水が入ってくるのです。
 休んでいる内臓も、びっくりです。
 これは、たまったものではありません。

 極めつけは、免疫機能を、お薬で邪魔されることです。
 解熱剤やタミフルを服用すると、熱が下げられてしまいます。
 熱が下げられると、免疫機能が低下してしまいます。
 そのため、より免疫機能を高めなければならなくなります。

 これは、今までの進化の過程では、経験してこなかった緊急事態です。
 いわば、ブレーキとアクセルを同時に踏む状態といえます。
 そのため、免疫活動が暴走を始めるのです。
 それにより、サイトカインという免疫物質が過剰に放出されることになります。
 (これを、サイトカインストームといいます)
 その結果、脳や肺や肝臓などの臓器に損傷を与えてしまいます。
 (これが、インフルエンザ脳症や急性肺炎といわれている症状です)

 また、本人は、熱が下がり、治ったと錯覚して出歩いてしまいます。
 そして、ウイルスをまき散らして、さらに感染を広げることになります。
 (つまり、パンデミックの原因になります)

 そして、熱が下げられてしまうことで、細菌の繁殖も抑えられなくなります。
 すると、今度は、肺炎などの細菌感染症を併発してしまいます。
 そのため、今度は、抗生物質を投与することになります。
 それにより、身体を守っている細菌(腸内細菌など)まで殺してしまいます。
 そして、さらに免疫力が落ちる、という悪循環に陥ってしまいます。

 さらに、深刻なのは、薬剤耐性菌を生み出してしまうことです。
 肝心なときにお薬が効かずに重症化してしまうことにもなりかねません。

インフルエンザウイルスの立場に立ってみる

 全体を把握するには、相手の立場に立ってみるというのも必要です。
 そこで、今度は、インフルエンザウイルスの立場から考えてみます。
 インフルエンザウイルスというのは、いわば、ホコリのようなものです。
 遺伝子は持っていますが、単体では生物とはいえません。
 人の細胞に取りつくことで、初めて生命を獲得し増殖できるようになります。
 それで、ウイルスは、私たちの細胞を求めてやってくるのです。
 ウイルスにしてみれば、人の細胞は自分の身体です。
 人は、宿主ですので、元気でいてもらわないと困ります。
 人類が絶滅すると、自分たちも絶滅してしまいます。
 したがって、ウイルスは、共に進化して欲しいと願っているに違いありません。
 実際に、長い年月をかけて、人との共生関係を築き上げてきました。
 (人との共生関係が未構築のウイルスは、人命を損なうこともあります)

 人は、ウイルスに対して、細胞を提供しています。
 では、ウイルスは、人に対して、何を提供してくれているのでしょう。
 インフルエンザで寝込んだ後は、爽快感があってリフレッシュできます。
 また、具合の悪かったところが、良くなっていたりします。
 形式論理で見ると、病気や辛い症状は悪です。
 でも、弁証法的に見ると、そういった決め付けこそが悪(非真理)といえます。

 インフルエンザにかかった人を調べてみると...
 骨盤の傾きが、普段とは逆になったりしながら揃ってきます。
 また、身体の左右の関節の稼働バランスも整ってきます。
 そして、仙腸関節の周辺に熱が集中しています。
 こう着している靭帯が緩んだり、硬結を寛解したりして、整っていきます。
 せっかくの高熱です。
 その熱を利用して、身体をオーバーホールしているかのようです。
 これは、いうなれば、基礎部分の修復です。
 筋平衡が揃ってくるということは、身体を根本的に整えていることになります。
 (つまり、錐体外路中枢のプログラムの癖治しです)
 これは、建物で考えると分かりやすいと思います。
 建物の基礎の一部でも沈下すると、立て付けの全てに影響が出ます。
 人の身体では、この基礎に当たるのが仙腸関節です。
 したがって、この仙腸関節を歪ませると、神経系や消化器系・免疫系・ホルモン系など、あらゆるところに影響がでてきます。
 そして、様々な病気を作ってしまいます。
 その原因が、間違った産褥管理でできた骨盤の歪みであったりします。

 というのは、今の産科では、遊牧民族の産科学を、そのまま適用しています。
 それで、出産後に、すぐに歩かせたり体操させたりします。
 これは、骨盤の復元力が弱い日本人(農耕民族)には大きな負担になります。
 広がった骨盤が閉じきる前に無理な力をかけるので、仙腸関節が歪んだまま固着してしまうのです。
 それがもとで、母乳が出なくなったり、産後うつになったり、肥満になったりするわけです。
 それだけでなく、年月を経てから、リウマチなども発症します。
 基礎が歪むのですから、全身の関節に影響が出るわけです。

 これは、私たち人類が辿ってきた進化の歴史に目を向けると分かりやすいと思います。
 私たち生物は、筋肉運動(アメーバ運動)から始まりました。
 そして、神経や腸管など、様ざまな器官が発達していくことになります。
 つまり、私たち自身の生命構造は、力学的運動形態(筋肉系)が基盤になっているわけです。
 したがって、筋平衡が崩れると骨格系や神経系などが狂ってきます。
 それに伴って、消化器系や免疫系、ホルモン系など、あらゆる器官に影響が出てきます。
 それを正すには、全身の筋平衡を整える必要があるわけです。
 筋平衡とはいっても、ハード面(筋肉)ではありません。(ハード面はあくまでも結果です)
 それを制御しているのはソフトウェアです。
 したがって、根本療法では、情報科学も含めた総合科学的手法を用いるわけです。

 こうしたことは、今の科学の視点からすると、一笑に付されてしまいます。
 今の科学では、弁証法的な視点がないため、把握ができないからです。
 事実というのは、全体的・総合的・時相的(歴史的)な上に成り立っています。
 それを、形式論理では、ありのままに捉えることができません。
 つまり、現象面(症状や患部・結果・欠点など)しか見えないわけです。
 そのため、生み出される方法論は、対症療法にならざるをえません。
 したがって、一時しのぎはできても、根本解決には行きつかないわけです。

外力(対症療法)の限界を知る

 今まで見てきて、よく分かるのは...
 私たちは、強い思い込みのもとに行動しているということです。
 それは、直接的な外力(条件)によって、内因(主体)をより良く(発展方向に)変えることができるというものです。
 でも、実際は、それは不可能なのです。

 たとえば、野菜の種を植えるとします。
 そして、水分や温度などの条件を整えてあげます。
 しばらくすると、芽が出てきます。
 この種の中にある「いのち」のはたらきが内因(因)です。
 そして、水分や温度などの条件が外因(縁)です。

 私たち(外因)が、野菜(内因)に対して、してあげられるのは、適度な条件を整えてあげるということだけです。
 もう少し詳しく整理すると...

 外因によって、内因を創り出すことはできません。
 外因によって、内因の力を高めることもできません。
 外因が作用できるのは、内因のはたらきを介してだけです。
 外因の作用に対して、内因には内部応力が発生し、その一部が残留します。
 (前例の身体の護身反射のように)
 外因による作用の効果は、局部的・一時的です。
 (全体・時相でみると混乱を招きます)
 作用の効果に比例して、弊害(副作用)も大きくなります。
 外因の作用が効果を現す場合は、内因が持つ本来の機能は低下します。

 たとえば、ステロイドや抗うつ剤を考えてみれば分かりやすいと思います。
 ホルモンなど、体内で作られる物質を外から補うような場合は...
 身体に直接的に作用するので、効果も高いです。
 その変わり、本来の機能は低下することになります。
 外から与えられることで、体内で作る必要が無くなるわけです。
 そして、効果が高い分、副作用も強くなります。

 逆に、不足させることで、機能を高めるというのが高地トレーニングです。
 低酸素の状態でトレーニングすることで、身体の酸素供給・活用能力を高めるというものです。
 菜食などで、蛋白質を摂らずに、不足した場合も同様です。
 腸内でのアミノ酸を生成する機能が高まり不足分を補います。
 腸内の窒素固定菌が増えて、腸内でアミノ酸を生成してくれるのです。

 土壌では、窒素肥料を考えてみれば分かりやすいと思います。
 植物は、土壌の共生細菌から必要な栄養素をもらい、
 逆に、その菌たちに、必要な栄養素を与えています。
 でも、外から肥料が施されると、植物は、根の張りが悪くなります。
 そして、こうした共生関係は壊れてしまいます。
 逆に、肥料分が少ない土壌では、根の張りが良くなり、微生物との共生関係が築かれていきます。

 形式論理では、プラス(与える)することで増えます。
 でも、事実は、逆だということです。

 このように、物事を発展方向に導く原動力は、内因にありました。
 (内因が支配的で、外因は条件にしかすぎません)
 ところが、衰退方向へは、外因の力は、支配的にはたらきます。
 つまり、外因によって、内因を破壊することは容易だということです。
 たとえば、たっぷりの栄養を与えようと、多めに肥料を撒くとします。
 すると、野菜は、根腐れして枯れてしまいます。
 手助けのつもりでも、内因が受容できる範囲を超えてしまったら破壊です。
 内因をねじ伏せ、成長の芽を摘むということは、日常的に行われています。
 それは、良いつもりで行っていることなので、なかなか正せません。
 また、この因縁の法則は、上記の例のようなものにとどまりません。
 個人や家庭・学校・地域・国など、あらゆる系に共通する普遍的な法則です。

私たちが今いるのは?

 なぜ、人は、周りに流されていくのかというと...
 それは、自らの立ち位置が明確になっていないからです。
 基準にする物差しがありません。
 どこに向かって歩いて良いのかも分かりません。
 「狭い門」を見いだすのは至難なわけです。

 今、人類は、どの段階まで来ているのか?
 そして、どこに向かおうとしているのか?
 私たちは、今、どの時点にいるのか?
 こうしたことを把握できれば、自らの立ち位置も明確にできます。
 そして、自分が為すべきこと為し得ること(戦略)も見えてきます。

 人類史の潮流から見ると...
 私たちが、今いるのは近代西欧文明の渦の中です。
 この近代西欧文明は、植民地主義の拡大と共に発展してきました。
 その背景にあったのが、科学の勃興であり産業革命です。

 その植民地主義の生みの親になるのが近代西欧哲学です。
 これは、人間こそが中心という考え方です。
 (スコラ哲学へのアンチテーゼとして生まれた思想)
 その上に花開いたのが近代西欧文明ということになります。
 今の社会も、その延長線上にあります。
 現在でいうと、新植民地主義(政治的支配や経済的搾取)です。
 したがって、今のままでは、みんなが潤うような経済にはなっていきません。

 みんなが潤うのであれば...
 貧しい国も豊かになって、購買力をつけて、経済も発展していきます。
 そして、格差も無くなり、紛争も消えていきます。
 そういう社会なら持続可能です。
 でも、それとは正反対に進んでいくことになります。

近代西欧文明の行方は

 これからは、ますます、競争が激化し、消耗戦に突入していくことになります。
 そして、貧富の差が広がっていきます。
 搾取する側は、どんどんお金持ちになっていきます。
 搾取される側は、貧しくなっていくのです。
 そして、紛争やテロを生み、世界の秩序が乱れていきます。

 今は、そういった多大な犠牲のもとに、何とか持ちこたえている状況です。
 それは、人的な犠牲だけではありません。
 環境や生態系は、いちじるしく破壊されています。
 未来の資源も先食いされています。
 そのための裁きも受けることになります。

 私たちは、今、高度な文明を築いていると思っています。
 でも、肝心の基盤は脆弱な「砂上の楼閣」といえます。
 それが、崩れつつあるということです。
 これは、人類史の大きな潮流です。
 この大きな流れは、誰にも食い止めることはできません。
 とはいえ、何とかして軟着陸させなければなりません。
 そのため、「狭い門」を、見いだそうと模索しているわけです。

 こうした人類史の流れを決定づけているのは何かというと...
 圧倒的多数の大衆です。
 つまり、「広い門」に殺到し、滅びの道へ...ということです。
 そして、私たちが、その当事者です。
 つまり、この世界は、私たちの考え方のままに動いていくことになります。

 とはいえ、それは、私たちの思考という意味ではありません。
 それは、自覚できない意識(心の癖)のことです。
 そこに、深く根ざしているのが近代西欧哲学です。

近代西欧哲学というのは

 その近代西欧哲学の核になっているのが、「対立を否定打倒抹消することによって進歩発展がはかれる」とする思想です。
 それが、私たちの自覚できない意識に深く刻み込まれています。

 私たちは、自由に、自分らしく思考をめぐらせているように思っています。
 でも、実際は、そういった観念に操られているのです。
 そして、今までの観念教育によって、本来伸びるべき芽も摘まれてきました。
 知識偏重で、物事を形式的にしか捉えることができないようになっています。
 価値観の押しつけで、自らの存在意義さえ見いだせなくなっています。
 マスコミ等によるマインドコントロールもなされてきました。
 いうなれば、私たちは、従順なロボットと化しているといえます。

 近代西欧哲学の考え方が、私たちの思考の基本となっているわけです。
 そのため、問題解決において、都合の悪いものを排除していきます。
 また、良いところを伸ばすより、欠点を無くすほうを重視していきます。
 そして、私たちは、無意識的に、物事に、善玉・悪玉のレッテルを貼って、悪玉を抹消していくことになるわけです。
 形式の世界(脳内の世界)では、悪を抹消していけば、善だけが残って、理想的な社会の実現につながります。
 でも、現実の世界では、そうはいきません。
 そもそも、現実の世界には、善も悪もありません。
 形式論理で(一面的に)、見た際に、そう見える(脳が認識する)だけです。

 たとえば、善玉・悪玉というと... 腸内細菌です。
 悪玉菌には、クロストリジウムやユーバクテリウムというのがいます。
 (空気中の窒素からアミノ酸を生成することのできる窒素固定菌の一種です)
 これら細菌は、蛋白質不足に陥った際に、腸内でアミノ酸を生成してくれます。
 (野菜も、生育の際、これらの細菌から栄養を供給されています)
 でも、こうした細菌たちは、今の飽食の時代には出番がありません。
 そのため、悪者として扱われているわけです。

 そして、悪玉として忌み嫌われているのがコレステロールです。
 でも、コレステロールというのは、私たちの体にとって必要不可欠な物質です。
 私たちの血管や内蔵のもとになる細胞や性ホルモンなどの材料になります。
 したがって、コレステロールが不足すると、細胞そのものがひ弱になります。
 そのため、血管がもろくなって、脳出血を起こしやすくなります。
 また、免疫力が低下して、ガンや感染症に罹りやすくなります。
 そして、神経機能が衰えて、うつ病や痴呆症を招いてしまいます。

 このように、私たちは、何につけ、善か悪かを判断の基準にしています。
 でも、こういうのは、人の主観による判断基準です。
 それが、正しい判断基準なら意図した結果になるのですが...

 その「正しい」か否かというのは、事実に沿っているかどうかです。
 つまり、その判断が、自然の法則に沿っていれば、意図した結果になります。
 でも、そうでなければ、想定外だったとなるわけです。
 では、世の中(自然)は、どんな法則に支配されているのかです。

 この世界のあらゆる存在は、みんな個性をもっています。
 同じものは、二つとありません。
 そんな多種多様なものが寄り集まってできている世界です。
 人は、見た目も違うし、性格や考え方も、人それぞれです。
 それは、会社や学校・国など、あらゆる系においても同様です。
 菜園の中を見渡しても...
 野菜や雑草などの植物、蝶やハチ・バッタなどの昆虫、土の中にも、ネズミやモグラなど哺乳類、ミミズや微生物など、上げたらきりがありません。

 そんな中では、あらゆる関係(局面)において摩擦(差異・矛盾・対立)が生じてきます。
 自然が、なぜ、そんな仕組みになっているのかというと...
 創造が起こるようにです。
 つまり、摩擦によって、進化が起こったり、新たな関係性が構築されたり...
 オスとメス(性差)から子供が生まれたり...して多様な世界が構築されていくわけです。
 ただし、それは、お互いの良い面を活かし合った場合です。

 もし、お互いの悪い面が衝突すると、闘争が起こります。
 そうなると、どちらかが抹消されることになってしまいます。
 それは、創造を指向する自然の法則に対する反逆行為です。
 創造の道そのものを断つことになるのですから...
 したがって、闘争によって為し得たとしても、持続できないわけです。

 この世の中には、客観的な状態としての闘争というのは存在しません。
 闘争という手段を講じた際に、初めて闘争状態に陥るというだけです。
 それは、私たちの頭の中にある概念の現象化に過ぎないわけです。
 どういう手段を選択するかは、私たちに、ゆだねられていることになります。

 対立(差異)を活かして止揚を図る道は必ずあります。
 あらゆる存在の裡には、発展(成長)に向かうための原動力が内在しています。
 その原動力を、「いのち」と表現することができます。
 その「いのち」を、いかにして見抜く(正見する)ことができるかです。
 それを、全力を上げて探ることこそが科学的態度です。
 そして、その能力を育成することが教育の本質といえます。